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黒い聖域   作者: 久遠
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               (3)宝石

  森岡が部屋でくつろいでいると、ほどなく沈美玉がやってきた。

 彼女が部屋の中に入った途端、クラブでは気にならなかった香水の匂いが鼻腔に入り込み、性欲をそそった。

 彼女は薄く微笑んだあとバスルームに消えた。化粧を落とした顔も美しいままだった。元々薄化粧だったようだ。彼女がバスローブを脱ぎ捨てると形の良い乳房が露になった。だが、大胆な行動とは裏腹に身体は小刻みに震えている。

「大丈夫かい?」

 思わず森岡が声を掛けると、彼女は意を決したように寄り添ってきた。クリーミーな肌に石鹸の清々しい匂いが森岡を夢心地にさせる。

 危うくベッドに押し倒されそうになったところで、森岡はそれを押し止め、

「時間はどれくらいあるの」

 と訊いた。

 彼女には意外な問いだったのだろうか、

「え?」

 と戸惑った顔をした。

「別に時間は決まっていません。事が済めば帰ります」

「お金は?」

「林総経理から貰っています」

「そうか。じゃあ、少しだけ話をしてから帰りなさい」

 森岡はバスローブを掛けてやると、冷蔵庫の中からシャンパンを取り出し、グラスに注いだ。

「お話だけで、私を抱かないのですか」

「そういうこと」

「私が気に入らないのなら、別の女の子と代わります」

 沈美玉は落胆した声でそう言うと、携帯を手にし店に連絡を入れようとした。

「そういうことではない。君は気に入っている」

 森岡は彼女の手を止めた。

「じゃあ」

「なぜ抱かないのか、不思議かい」

 こくり、と彼女は肯いた。

「君だけじゃなく、僕は金で女性を買わない主義なんだ」

「……」

 彼女はまるで異星人を見るかのような目で森岡を見つめた。

 これは嘘ではなかった。森岡は菱芝電気時代、会社の先輩や取引先の担当者などに誘われて止む無く風俗店に足を踏み入れたことがあったが、その度に金だけ払って済ませていた。

「じゃあ、なぜ……」

「ルームナンバーを教えたのかって言うんだろう」

「はい」

「林さんの好意を無下に断るようなことはできなかったのだよ」

「まあ……」

 美玉は何とも言えぬ顔をした。

「周囲からは大馬鹿者だと思われているよ」

 森岡は苦笑いをした。

「そんなことはありません」

 彼女は強い口調で言った。まるで怒っているかのようだ。

「森岡さんは奥さんを深く愛しているのですね」

「女房はいないが、まあそういうことかな」

「独身なのですか」

「先妻とは死別したけど、婚約者がいるから独身とも言えないな」

「婚約者の女性が羨ましいです」

 と言った彼女の顔に憂いが宿った。

「どうかしたの」

「い、いえ」

 彼女は口籠った。

「心配事があるなら言ってごらん。僕にできることなら力になるよ」

「抱かれてもいないのに……」

 美玉は躊躇いを見せた。

「何にでも首を突っ込むお節介焼き、と周囲から呆れられているけど、僕の性格でね、困った人を放って置けないんだ。特に女性の困った顔に弱い」

 森岡は苦笑いしながら、グラスにシャンパンを注ぐと、乾杯を催促した。一気飲みをさせて彼女に決断を促すためである。

 森岡の意図どおり彼女は重い口を開いた。

「実は、森岡さんに抱かれた後、あるお願いをするつもりだったのです」

「君を抱かなくても力になるよ。その願いとやらを言ってごらん」

「私を日本に呼んでもらえませんか」

「な……、君を日本に?」

 さすがの森岡も予想外の展開だった。   

 沈美玉は十七歳。林海偉グループ傘下の芸能事務所所属のタレントで、現在はデビューを目指し、歌と芝居のレッスン中なのだという。

「台湾でデビューが近いのなら、日本に行く必要はないじゃないか」

 彼女は、虚ろな目で首を横に振った。

「デビューするためには、今日みたいなことを何度かしないといけないのです」

 ああ、そういうことか、と森岡は言葉の意味を理解した。

 現代の日本の芸能界では、ほとんど無くなったが、終戦直後から高度経済成長に掛けていわゆる『枕営業』というのは珍しいことではなかった。テレビが発展する前の時代は、地元の興行主――大抵は地回りの極道である――に身体を任せ、テレビ全盛時代になると、テレビ局の制作者、スポンサーといった権力者に媚びることになった。現代でも、枕営業とは違うが、生活の面倒を看てもらう金主を探す芸能人が少なからずいるのも事実である。

 台湾芸能界もまた、日本の昭和三十年代後半から四十年代頃のそれと思えばわかり易いだろう。さしずめ、沈美玉は林海偉の愛人というべきか、手駒の一人になっているということなのだ。

「言い難いが、林さんの愛人になれば、こういうことをしなくても済むのでは」

「私もそのように覚悟していたのですが、突然森岡さんの相手をするよう指示をされたのです」

「意味が良くわからないな」

「それは……」

 彼女は芸能界デビューしたいのはやまやまだが、台湾の芸能界だと、林海偉であれ誰であれ、早晩身体を売る破目になることが目に見えていた。日本であればそういうことはないと耳にしていたが、むろん日本の芸能界に伝手は無いし、それ以前に林海偉の承諾が必要である。

 諦めかけていたところに、林海偉から森岡の来台を聞かされた。しかも、森岡であれば、日本でのデビューに力を貸してくれるかもしれないという。

 林海偉は、そうはいっても森岡がただで力を貸してくれるはずはないから、操を捧げる覚悟を決めたらどうだと助言されたのだという。

「林さんが、俺が面倒を看るのであれば、日本行きを許すと?」

 はい、と美玉は返事した。

 もちろん、彼女にも選ぶ権利を与えることにした。そこでカラオケクラブのホステスということにして森岡と見合わせたのである。

 その結果、少なくとも彼女は森岡を気に入り、どうせ好きでもない男に抱かれるのであれば、森岡の方が断然ましだと覚悟を決めたと告白した。

「それにしても、君が格段に魅力的なわけがわかったよ。タレントの卵だったとはねえ」

 森岡が沈美玉を見つめると、彼女は頬を赤く染めて俯いた。

 ただ単に美形というのであれば、茜や銀座のクラブ有馬の美佐子も引けは取らないだろうが、彼女には良い意味で異性を引き付ける魔性があった。日本人であれ台湾人であれ、この種の魅力がなければ芸能界では大成しない。逆に言えば、この異性を虜にするフェロモンがあれば、さほど美形でなくても売れるものなのだ。

「でも、森岡さんに断られたので、台湾に残るしかありません」

 消え入るような声だった。

「答え難いことを聞くけど、台湾では身体を売らないとデビューできないのかい」

「そのようなことはありません。でも、私の場合は家が貧乏でしたので事務所に借りがあるのです」

 沈美玉は唇を噛んだ。

 つまり、資産家の娘であれば、デビューまでのレッスン費用やデビュー後の衣装代などの経費は自前で賄えるが、そうでなければ立て替えてくれている事務所に返済しなければならない。そのためには、確実に『売れる』必要があるということなのだ。

「このままだと、君はまずは林さんに抱かれることになるのだね」

「そう覚悟していました。ただ、総経理がその気であれば、とっくの昔に……」

 抱かれていてもおかしくない、ということらしい。 

 生来、森岡はこの種の話に弱いのだが、それでもこの話には何か裏があるのではないかと疑念が浮かんだ。

 いわゆるハニートラップの臭いを嗅ぎ取っていたのである。中国当局が蝶蘭という諜報員を使って日本の国会議員である宅間を籠絡したようにである。森岡は民間人であるが、産業スパイということもある。

 ともかく、日本においては国家機密から産業技術情報まで、各国のスパイが跳梁跋扈しているのが現実で、その経済的損失だけでも、年に数兆円という試算があるほどである。

 林海偉が怪しいのは間違いないが、彼の目的がわからなかった。むろん、杞憂に過ぎないかもしれないが……。

「僕が支援するから、台湾でデビューするというのは駄目かな」

 沈美玉は悲しい目で首を左右に振った。

「それでは総経理の顔が潰れます」

 台湾はまた日本より遥かに対面を重んじる社会でもある。表現は悪いが、ある意味で台湾社会全体が日本の極道組織のようなものである。しかも、台湾有数の資産家である林海偉が、森岡でなくとも他人の力を借りて所属タレントをデビューさせることなど屈辱以外の何物でもないのである。

「では、君を抱いたことにして、僕が君を日本に連れて帰るというのはどうだろうか」

 彼女はまたもイヤイヤをするように首を振った。

「すぐにばれてしまいます」

「そこは、タレントを目指しているのだから、上手に演技はできないの」

「そういうことではなくて……」

 彼女は恥ずかしげに視線を落とした。その恥じらいが何とも言えず森岡の胸を掻き立てる。

「そうか、病院で調べられたらすぐにわかってしまうのだね」

 森岡は、彼女がまだ男を知らない身体なのだと気づいた。さすがに病院で検査をさせることまではしないだろうが、林海偉ほどの男である。彼女の嘘はすぐに見抜くだろうと思い直した。

「森岡さんは私が嫌いですか」

 身体を傾けるようにして言った。バスローブの胸元が少しはだけ、胸のふくらみが垣間見えた。森岡の脳裡に形の良い乳房が焼き付いた。

「今晩会ったばかりなのに、好きも嫌いもないよ」

「じゃあ、私のこと気に入りませんか」

 彼女はつぶらな瞳を真っ直ぐに森岡に向けている。

 森岡は、何やら真綿で首をし絞められているような、雪隠詰めに遭っているような気分になった。

「さっきも言ったけど、君ほどの女性を気に入らないわけがないだろう」

 そう言った森岡は、言い訳に終始している自分に嫌悪感を抱いた。十七歳の彼女の方が遥かに潔い。

「たとえば、身体を売るようなことさえなければ台湾で芸能活動をしたいかい、それとも日本へ行きたいかい」

「それは日本です」

 彼女は決然と言った。

「マリアのようになりたいです」

 マリアとは『マリア・テン』のことである。台湾では神格化された存在だが、台湾のみならず日本、中国、香港、タイ、マレーシア、シンガポール等でも絶大な人気を誇り、『アジアの歌姫』と称賛された歌手だった。

「わかった。とりあえず君を二年間支援しよう。東京での生活、歌と芝居、ダンスと日本語のレッスン費用も僕が面倒を看る」

 彼女は日本語を話せた。だが、歌手や女優であれば発音も問題ないレベルであるものの、バラエティ番組でのトークとなると、機転を利かせるには物足りなさが感じられた。

「二年ですか」

「その間に、僕の方で所属事務所を決め、デビューのための根回しをする。だが、君の実力が伴わなければ台湾に戻ってもらう。それで、どうだい」

「ありがとうございます」

 それで、と彼女の目は訴えていた。

 森岡は観念したように彼女の肩を抱いてベッドに横たえた。


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