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黒い聖域   作者: 久遠
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         第四章 調略(1)再会

 平年より半月も早く梅雨が明け、本格的な夏を迎えた七月の中旬。

 京都では祇園祭が賑わいを見せ、大阪では天神祭の準備に、市民が胸を躍らせていたその日。

 約束の時間通り幸苑に着いた森岡は、女将の勧めで彼女自慢の庭を眺めることになった。彼より先に到着していた谷川東良が、汗を洗い流すため湯船に浸かっていたからである。

 幸苑は、創業時から昭和四十年代まで、割烹旅館を生業としていたため、四畳ほどもある総檜の内湯が一つ残っており、今でも客が所望すれば入浴することができた。

 森岡はいつもの鶴の間ではなく、東の庭が良く見える女将の部屋に案内された。

 打ち水を浴びた草花は、生命を吹き込まれたかのように鮮やかな緑を放ち、薄闇の中に浮かび上がる灯篭の凡庸とした灯りと、静寂を打ち破って響き渡る鹿威しの添水の音が幽玄の趣を醸し出していた。

「あの松の姿は良いですね」

 森岡は、表門のすぐ脇の松を見て言った。

「まあ」

 夏らしく紗の着物をきりっと着こなして、斜め後ろに座っていた女将の村雨初枝は、驚きの声を上げた。

「失礼ながら、森岡さんの口からそのような風情のある言葉が聞けるなんて、思ってもみませんでしたわ。でも、有難うございます。庭師が聞いたら喜びますわ」

「いや。恥ずかしながら、私は庭に興味を持ったこともありませんし、良し悪しもわからないのですが、あの松の枝振りが、生まれ育った家の庭の松に似ていましてね。ですから、あの松を観る度に、祖父がいつも丹精込めて手入れをしていたことを思い出してしまい、懐かしさで胸が詰まってしまうのです」

 森岡はしみじみと言った。

 彼がことさら感傷的になったのは、この日はちょうど祖父の命日であり、彼は永代供養を依頼している島根の菩提寺にお礼の電話を入れたばかりだったからである。

「現在、森岡さんの生家はどうなっておりますの」

 女将はそう訊ねておきながら、すぐに後悔した。

 彼女は大まかにではあるが、森岡の身の上を察していた。結婚披露宴のときに、彼の家族、親族が一人も出席していなかったことから、ある程度の見当を付けていた。そこで、つい立ち入ってしまったのである。

「従兄が住んでいます。その従兄に先祖の墓守も頼んでいます」

 と言うと、少し間を置いて、

「私は、ずいぶんと前に故郷を失ってしまいました。ですから、余計にあの松の木が懐かしく思えるのでしょうね」

 生家である灘屋はすでに無くなっていた。彼が小学生の頃に次々と不幸が襲い、廃家同然となったのである。 

「そうですか。それはお寂しいでしょうね。私のように生まれも育ちも大阪で、初めから田舎というものが無い者にはわからない喪失感なのでしょうね」

「おそらく……」

「はい」

 女将は静かに先を催促した。

「おそらく、あの松と私の生家の松の枝ぶりは全く違うと思います。というより、正直に言いますと、私は祖父が大事にしていた松の枝振りを全く憶えていないのです」

 森岡は、腹の底から搾り出すように言った。

 そのとき、女将は森岡の背中を透して、心の中に大きな空洞を見た気がした。そして、初めて見せた森岡の一面に居た堪れなくなった。

「お茶を取り替えましょうね」

 女将が、かろうじてそれだけを言い残し、その場を立ち去ろうと腰を上げたとき、襖の向こうに若女将の声がした。

 谷川東良が席に着いたという知らせだった。 

 

 二人の協議は最終局面に入ろうとしていた。いよいよ誰を、いつ、どの様な策で籠絡するのか、決断するときを迎えていたのである。

 森岡の手には、榊原壮太郎と伊能剛史によって、桂国寺の坂東、相心寺の一色両貫主に関する詳細な情報が握られていた。

「谷川さん、あれから何か目ぼしい情報がありましたか」

 森岡は、まず谷川東良の出方を窺った。

「なんとか、二人の情報を掴んだ」

「誰と誰ですか」

「桂国寺の坂東上人と相国寺の一色上人や」

「それで、どのような情報ですか」

「おう、一人目の坂東上人はな、とにかく女好きでな、二日と空けず祇園に繰り出しているそうや。何でも、入れ揚げているホステスがおるらしいんやが、それがどの店の誰かがわからんのや。もう一人の、一色上人やねんけどな、執事の一人に訊いたところによると、異常なほど金に執着があるようやな。その執事は大学の後輩で、可愛がっていた奴やから、間違いはないと思うんや。ただな、相当なプライドの持ち主ということやから、正面切って現金の話をするわけにはいかんやろうな」

 谷川東良は、己の手柄を誇示するかのように捲くし立てた。

「なるほど。やはり、間違いないようですね」

「やはり?」

 東良が言葉尻を捉えた。

「ええ。私の方でもそれなりに調べていたのですが、谷川上人の情報と一致したので安心しました」

「そういえば、君も調べると言うとったな」

「初めはそうでもなかったのですが、時間が経つにつれて、三億も無駄に捨てるのが惜しくなりましてね。よくよく考えた結果、自分自身が納得するためにも、私なりに手を打つことにしたのです」

「そりゃあ、そうやろう。いくら学生時代の恩人やいうて、三億をどぶに捨てるかどうかの瀬戸際やからな」

 東良の目は冷ややかなものだった。

 森岡は、その微妙な声の変質が笑いを押し殺したものだとわかっていた。そしてそれは、金に執着心を見せたことで、偉そうに大口を叩いていたが、所詮は金を惜しむ俗人だったか、と蔑んだためとも察していた。

 森岡の豪気に圧倒され続けていた谷川東良は、いくぶん溜飲を下げた気分だったが、それも束の間だった。

「お話の、坂東上人が入れ揚げているホステスというのは、クラブ・ダーリンの源氏名が『瞳』というちいママです」

「なにい。クラブ・ダーリンのちいママってか」

 森岡の一言に、再び動揺の色が浮かんだ。

「よ、よくわかったな」

「先週、三夜連続で通いました」

 森岡は、どこまでも平然としていた。

 まさしくあの夜。彼はその瞳なる女性をを目当てに、祇園に足を踏み入れたのである。

「三夜連続で、か。それでどんな女や」

「年は、三十過ぎとか言っていましたが、おそらく私より二、三歳年上の四十手前ってとこでしょう。でも、結構良い女ですよ。確かに、年齢より若く見える男好きのする美人でしたし、気さくな感じでした。それに、金に任せて粉を掛けてみましたが、乗ってこなかったですから、尻軽でもなさそうですし、あの女なら坂東上人が入れ揚げてもおかしくはないですね」

 森岡は、差し障りのない印象を述べた。

「そうか。しかし、女好きというだけではなあ。飲み代に困っている風でもなさそうだし……」

「いえ、付け入る隙はありますよ。どうやら坂東上人は、何とかその瞳を愛人にしたいらしいのです」

「囲い者か。それなら、相当に金が掛かるやろなあ」

「彼女が条件として出したのが、祇園で店を持たしてくれということらしいのです。祇園なら、ちょっとした店でも一億近くは掛かりますからね」

「そ、そうか。そこまで調べたんか。坂東上人なら、それぐらいの金は持っているやろうが、上人は入り婿やからな。財布は奥さんに握られていて、自由になる金はほとんどあらへんやろう」

「おっしゃるとおりです。ですから、自由になる金が喉から手が出るほど欲しいはず。久保上人からの金では、到底足りないでしょうからね」

 森岡は皮肉を込めて言った。

 いわゆる大本山や本山というのは、天真宗宗門の寺院である。したがって、たとえ貫主といえども、寺院の金の私的流用は厳禁である。また、本山で生涯を全うすることもあるが、勇退した場合はその多くが、自らが所有する寺院に戻ることになる。いずれにしても、坂東が自由にできる金は多寡がしれていた。

 尚天真宗において、末寺は宗門所有と個人所有に分かれ、その個人所有も宗門に属する場合と、独立した単立寺院とに分かれている。宗門所有の末寺の場合、大本山や本山と同様、前住職が後継を指名し宗務院が承認する形を採っているが、仮に後継指名がない場合は、選挙ではなく宗務院が人選を行う。

「しかし、たいしたもんやな。どないして調べたんや」

 すでに呆れ顔の谷川東良に対して、

「まあ、それは良いじゃないですか。金を掛ければ、それなりに調べられるということです」

 と煙に巻いた森岡は、

「それより、一色上人の方ですけどね。こちらも、谷川上人のおっしゃったとおりのようですね」

 さらに情報収集能力の差を見せ付けるかのように畳み掛けた。彼の許には、伊能の雇った情報分析官からの調査報告書もあった。

 かつて、滋賀で機械工場を営んでいた一色の生家は、彼の幼い頃は戦争景気もあって、かなり羽振りが良かったらしい。ところが、好事魔多しということだろうか、巧妙な手形詐欺にあって、財産をすっかり巻き上げられてしまった。

 突然、三度の食事にさえ困るようになった両親は、口減らしのために、一色を菩提寺だった常楽寺じょうらくじへ養子に出した。常楽寺としては、羽振りの良かったときに支援された手前もあって、断ることができなかったのだが、何分戦中戦後の貧しい時代である。一色は邪魔者扱いされ、ずいぶんと肩身の狭い思いをしたというのである。

 それが、彼の片意地を張るようなプライドと、異常なまでの物欲に繋がっているのであろう。

 ところが、男の実子二人が共に夭折してしまい、結局一色が寺を継ぐことになったのだから、 人の運命とは摩訶不思議なものである 。

「ほんま、ようそこまで調べられるもんやな。プロでも使っとるんか」

「そんなところですが、あくまでも過去の調査ですからね。現在は不明ですから、丸ごと鵜呑みにするわけにもいかなかったのですが、相心寺の執事の話ということから、裏付けが取れましたので安心しました」

「とはいえ、一色上人は相当プライドが高いからな。どうやって賄賂の話をするかが問題やな」

 東良は難しい顔で腕組みをした。

「そのことですが、私に妙案が浮かびましてね。現在その準備をしているところなのです」

「妙案やと」

「現金ではなく、般若心経の経典を献上しようと思うのですが、ただの経典ではなく、細工を施した逸品をと思いましてね、急いで試作品を作らせているところです」

 森岡はその経典の製作を榊原に依頼していた。商売柄、仏師をはじめとして各種工芸の名工たちと交流がある。森岡は榊原を通じて、人間国宝級の職人に手掛けさせていた。

「経典に細工って、どないな細工や」

「それは、後のお楽しみということにしましょう。仕上がりましたら、谷川さんには事前にお見せいたしますので」

「そうか。君がそういうのなら、そのときのお楽しみということにしておこうか」

 東良は、森岡の言におとなしく従った。もはや、森岡に逆らう気力など失せてしまっていたのである。

「しかし、まだ二人やからな。もう一人をどうするかや」

 東良の口調は、渋い顔つきに反して軽いものだった。。何やら苦境を楽しんでいるようにも見えなくはない。

「いえ、大丈夫です。もう一人味方に付けました」

「えっ?」

 驚きのあまり、ただでさえ細い東良の目が点になった。

「いったい誰や? わしの知る限り、そんな奴はおらんで」

「龍顕寺の斐川角上人です」

「ひ、斐川角……」

 とうとう悲鳴のような声を上げた。

「斐川角上人は、前回も久保上人に味方したんやで。そないに簡単に寝返るわけがないやろ」

「それが、私の高校時代の友人に斐川角上人の甥がおりまして、彼の紹介でお上人にお会いしたところ、快諾して頂きました」

「高校時代? 確か、君は島根出身やったな」

「ええ」

「もしかして、斐川角上人も島根出身ということか」

「松江です」

「ということは、神村上人の生まれ故郷の米子とも近いというわけやな」

 島根県の松江と鳥取県の米子は、車で約三十分ほどの距離にある。

「せやけど、同郷というだけではなあ」 

 谷川東良は、未だ信じられないと言う表情で呟いた。

 森岡は、南目を伴って再度奈良に赴き、斐川角勇次と会った。勇次は、森岡との面会を拒んだが、南目輝の名を聞いて態度が一変した。

 暴走族は、仲間との関係を大事にする。それは十年経とうが二十年経とうが変わることはない。似たような境遇の者が集まっているため、殊の外絆が強いのである。

 勇次にとって、南目輝は憧れだった。百五十人のメンバーを従え、颯爽と先頭を走る姿を、彼は後方から眩しく見ていた。

 しかも、勇次には負い目もあった。

 南目が傷害事件を起こしたのは、元はといえば、彼が他県の暴走族とトラブルを起こしたのが発端である。南目は、いざこざを起こしていたのが勇次だとは知らなかったが、仲間の窮地に駆け付け、相手に重傷を負わせてしまったのである。

 したがって、勇次は南目の言うことであれば、どのようなことであろうと、黙って従わずにはおれないのである。

「いや。何にしても、味方に付いてくれたのなら、有り難いことやな」

 そう言った谷川の声には力が無かった。

 谷川には『金を掛け』ということにしたが、情報収集ということで言えば、坂東に関しては少し意味合いが違った。

 

 話は数日前の夜に遡る。

 京都祇園のクラブ・ダーリンのソファーに腰掛けて、三十分も経ったであろうか。同伴らしき男性と店に入って来た女性を見て森岡は驚嘆した。

「あら、洋ちゃん」

 一瞬、凝視した女性がすぐさま親しげに声を掛けた。

「菊、姉ちゃん?」

 森岡は我が目を疑った。

「洋ちゃんが、どうしてここに?」

「菊姉ちゃんこそ、どうして……」

 混乱状態の森岡に向かって女性が目配せをした。

「菊姉ちゃんは止めて。ここでは『瞳』っていうの」

「えっー」

 何という奇遇に、重ねて仰天した森岡は、しばらくの間、あんぐりと口を開けたままだった。


 二人にとって、十五年ぶりの再会であった。

 森岡が神村の書生に入って数ヶ月経った頃、京都祇園の御茶屋「吉力きちりき」で、さる企業の社長の接待を受けた。その社長というのは、神村の自坊である経王寺の護山会の副会長を務めていた。神村は、毎月社長宅の仏壇へ経をあげており、そのお礼の意味合いで、吉力において饗応を受けていたのだが、その日初めて森岡もお相伴に預かったのである。

 毎回、鳴り物入りの酒宴となったようで、このときも馴染みの芸妓と舞妓を呼んだ。その中にいた菊乃という芸妓が、森岡のダーリンでの目当ての女性・瞳その人だったのである。


 実は、森岡にとって菊乃は初めての女性だった。

 御茶屋吉力で初めて出会った二人は、すぐに打ち解けた。三歳年上の菊乃は、さっぱりとした気質で、どちらかといえば内気な森岡をリードした。吉力での酒宴が終わると、菊乃は一旦置屋へ戻って女将の許可を得て外出し、森岡は神村をホテルに送り届けてから、深夜に部屋を抜け出した。そうして二人は、再び祇園や木屋町のラウンジで落ち合った。

 化粧を落とし、素っぴんと見間違うほど薄化粧の菊乃は、少女のような童顔だったが、気性は姉御肌で、その落差が彼女の魅力の一つになっていた。

 もっとも、森岡に恋心があったというのではない。彼には書生修行という大目的があったので、女性に現を抜かしている暇は無いと自らを厳しく律していた。

 だが、菊乃には妙に心が惹かれた。神村の許で緊張の日々が続く中、彼にとって菊乃は、恋人というより気の休まる姉のような存在だったのかもしれなかった。

 菊乃の方も、森岡に惚れていたわけではなかったが、彼女はある事情を抱えていた。

 二人は、毎月の酒宴後の密会以外にも、度々デートを楽しむようになった。

 そうして、三ヶ月が過ぎた頃、菊乃からの突然の呼び出しを受け、森岡は京都に足を運んだ。

 その日、気分に任せてしたたかに飲み過ぎた森岡は、酔った勢いで菊乃が置屋の他に借りているアパートへ転がり込んだ。菊乃の部屋に入ってまもなく、森岡は安心感から眠りに入った。神村は宗務で総本山に出向いていたため、経王寺に戻る必要はなかったのである。

 どれくらい時間が経ったかはわからなかったが、夜中にふと目が覚めた。下半身で何かが蠢いているのだ。

 森岡が頭を擡げると、菊乃が一物を口に含んでいた。驚いた森岡だったが、あまりの快感に、なすがままになっていると、やがて菊乃が上になって二人は繋がった。

 あっという間に森岡は果てた。初めてのことなので無理もなかったが、若さゆえ蘇るのも早かった。菊乃の身体の中で、すぐさま大きくなったのである。

 小柄で華奢な割に適度な大きさの乳房と、抜けるように白い肌は、初めて快感というものを知った森岡の性欲を駆り立てた。その後、続けざまに二度、間を置いて朝方にもう一度、二人は目合った。

 だが、二人が身体を重ねたのは、その一晩だけであった。

 当時は携帯電話など無く、森岡が置屋に連絡を入れるのは憚られたため、もっぱら彼女からの電話を待ち続けたが、その夜以降は一度も無かった。

 そして、翌月御茶屋へ出向いたとき、菊乃は姿を見せなかったのである。

 お茶屋の女将の話によると、彼女はある中小企業の社長に身請けされたいうことであった。

 身請け料は三千万円。花柳界に生きる女性の選択肢の一つだった。愛人として生きる決心をした菊乃は、最後の恋人もどきの情交を森岡に求めたのである。

 断っておくこともないが、今の時代は花柳界の女性も自由恋愛である。身請け料というと人身売買のようで聞こえが悪いが、支度金と思えばわかりやすいだろう。

 以来、十五年ぶりの再会であり、彼女は本名の片桐瞳を名乗っていた。


「ふーん。なるほど、それで私がどのような女性か調べに来たのね」

 瞳は、含みのある言い方をした。

 二人は瞳が店を引けるのを待って、十五年前にも落ち合ったことのあるショットバーで待ち合わせをしていた。

 森岡は此度の一件のあらましを話し、瞳は坂東から執拗に迫られ、迷惑していることを告白した。

「そういうこと。しかし、菊姉ちゃんが瞳だったとは、世の中は狭いなあ」

 森岡は感慨深げに言った。

「菊姉ちゃんは止めて、もう芸妓じゃないんだから」

「ごめん。でも、なんて呼べば?」

「瞳、と呼び捨てで良いわ」

「じゃあ、菊、いや瞳……なんでまた水商売を?」

 愛人だったはずでは、との疑念が含まれていた。

「それがね。中小企業の社長の愛人になったのは良いけれど、三年後に癌で死んじゃったの。その後、普通のサラリーマンと結婚したけど、それも二年で離婚したわ。後はクラブを転々とするお決まりのコースよ」

 瞳は自嘲の笑みを零した。

「身請けされたと聞いて、複雑な気持ちだったなあ」

 森岡は当時を思い出すように言った。

「あら、嬉しい。もしかして私に気があったの」

「そうではないけど……・なんせ、その……」

 森岡にしては、珍しくも歯切れが悪くなった。

 ははん、と訳知り顔になった瞳が、

「男って、初めての女性が忘れられないっていうけど、洋ちゃんもそうなのね」

 と茶化すように言うと、

「あのさ。俺のことも、洋ちゃんって呼ぶのは止めてよ」

 森岡は気恥ずかしさでふくれっ面になった。十五年前も今も、瞳の前では弟のように頭の上がらない森岡なのである。

「じゃあ、洋介。神村先生のことはわかったけど、洋介自身は何をやっているの。ずいぶんと羽振りが良さそうだけど」

「IT企業をやっているだけで、たいしたことはないよ」

「へえ、社長さんか。でも、ダイナースとアメックスのプラチナカードを持っているって、ママから聞いたわよ。凄いじゃない」

「まあ、それくらいは持っているかな」

 森岡は話題から避けるような口調で答えた。こういうことは、あまり自慢したがらない男なのである。

 それから暫しの間、何やら思案していた様子の瞳が、

「そうだ、洋介」

 と思い立ったように口を開いた。

「洋介が、私の男っていうことにしてくれないかしら」

 森岡は瞳の意図を察した。

「それは構わないけど、坂東は簡単に信用しないと思うなあ」

 聞けば、坂東は瞳がまだ舞妓の時代から心を寄せていたというのである。二十年も昔のことであり、その頃の坂東に瞳を身請けする財力などなかった。

 その後、瞳は中小企業の社長に身請けされたため、手の届かないものになったのだが、半年前にダーリンで再会したことで、昔の情熱が再燃したのだという。

 森岡は、その執念深い坂東が安易に彼女を諦めるはずがないと思ったのである。

 だが、その森岡にもあることが閃いた。

「なあ、瞳。この際、自分の店を持ったらどうだ」

「何を言っているの。いくら掛かると思っているのよ」

「俺が金を出すよ。一億もあれば、祇園でもちょっとした店が出せるだろう」

「冗談言わないでよ」

 瞳は取り合わない仕草をした。

「いや、冗談じゃない。一億ぐらいなら出しても良いよ」

 森岡は本気であると重ねて伝えた。

 このとき彼は、瞳を餌にして坂東を釣ろうと考えていた。また、神村が本妙寺の貫主になった以降の、京都での社交の場に使おうとの別の思惑も抱いていた。

「本当に? 私を愛人にしてくれるの」

 瞳は半信半疑で訊いた。

「あははは……俺は独身だから、愛人なんかじゃないよ」

「独身なの」

「ああ。妻とは死別した」

「あら、そっちもいろいろあったのね」

「まあね」

「じゃあ、私たち付き合うってことかしら」

「いや、そういうことでもない」 

 森岡は曖昧に答えた。

「どうして。別に結婚して欲しいなんて、野暮なこと言わないわよ。それとも他に好い女性ひとでもいるの?」

「うーん。ちょっと違うけど」

 森岡の煮え切らない態度に、瞳が感づいた。

「その口振りだと、気になる女性がいるのね。洋介は真面目だから、二股なんて掛けられないだろうからなあ」

 瞳は、森岡を覗き込むように言った。

 真面目な顔つきで軽く首肯した森岡は、

「そんなことより、ともかく瞳を坂東なんかの愛人にさせたくない」

 と語調を強めた。

「私も、あんな狒狒爺の愛人なんか、真っ平ごめんだわ。でも、お店にとっては上客だから無下に扱えないのよ」

 瞳も忌々しげに応じた。

「よし、決まった。では、こうしよう」

 意気込んだ森岡は、瞳をこう言い含めた。

 祇園に出す店の金は、森岡が融通する。純然たるビジネスパートナーとしての出資である。瞳は雇われママではなく、店の裁量一切を彼女に任せる。その代わり、毎月一定の利益を森岡に還元する。

 坂東に対しては、愛人となる条件として、祇園に店を出す費用の七千万円を融通して欲しい旨を伝える。坂東が諦めればそれも良し、諦めなければ森岡の計略に嵌まることになる。

 瞳は本妙寺の貫主選挙の投票が終わるまで、坂東の気持ちを繋ぐこととする。坂東が神村に投票さえしてくれれば、別のパトロンが見つかったので、祇園に店を出すと伝え、引導を渡す。

「でも、虚仮にすることになるけど、大丈夫かしら」

 瞳は不安な目をして訊いた。

「痩せても枯れても本山の貫主だから、事を荒立てて、表沙汰になるようなことはしないよ。それにもしものことがあったら、坂東の家庭に揺さぶりを掛ける。奴は婿養子だから、奥さんには頭が上がらないはずだ」

 森岡は、瞳を安心させるような笑顔を見せた。

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