茶髪とロングコート
初投稿になります。感想などを書いてもらえると嬉しいです。
兄の代わりに隣駅のレンタルビデオ店にビデオを返却した帰りに、駅で前野涼子を見かけた。髪の色が茶色で、ロングコートを着ている彼女の姿は、俺の記憶の中の彼女と大きく異なっていて、時の流れってものを感じされられた。
前野涼子は中学校の同級生だった。授業中に大工さんのように、シャーペンを耳に掛けていたのが彼女に関する最初の記憶だ。前野は身長が高くて、長髪で、目が大きくて、小顔で、俺が惚れる要素に充ち満ちている美人だった。
当時俺は明治や大正の文学をよく読んだ。少年漫画の話ばかりしている周りのクラスメートより、自分は大人なんだと思えたからだ。だから前野が休み時間に太宰を読んでいるのを見たとき、俺にとって前野が特別な存在になった。
他のクラスメートとは違う特別な存在になった。本気で好きになったんだ。
前野は電車の時刻表を見つめている。こっちに気づいてはいない。俺は前野のほうへとどんどん距離を詰めていく。手を伸ばすと前野に触れられる距離まで近づいて、俺は立ち止まった。あの時も、前野に話しかけるときはちょっぴり緊張したんだったけ。
「もしかして前野じゃないか」
俺は思い切って話しかけたとき、自分の言葉が脳内でリフレインするんだ。今もリフレインしている。
前野がこっちを向く。目と目が合う。あの二つの大きな目が俺をとらえるのは何年ぶりだろう…。
前野は相変わらず美人だった。茶色の髪とロングコートが夕焼けのオレンジ色と混ざって、なんだか抽象画のように見えた。
「宮内くん、久しぶりだね」
三年ぶりの前野は、黒髪が茶髪になり、制服からロングコートへと変わっていたけど、あたりまえだが、正真正銘の前野だ。
「髪、染めたんだな。それに身長も伸びてる」
俺は当時から前野よりも身長が低かった。今はもっと差ができてる。ちょっと、いや、かなりショックだ。
「そうなの、高校三年間でかなり伸びたの。でも宮内くんは相変わらず小さいね」
「残念ながらね…」
前野は少し笑う。
「変わらないね〜」
俺は変わってないのか…。
でも、久しぶりに会う人に『変わった』と言われるときは、だいたい悪い方向に変わったときだと思うから、悪い気はしない。
「前野くんは何処の大学に行くの」
「A大だよ、前野は」
「私はB大だよ。でも前野くん、A大に受かるなんて凄いね。昔はそんなに賢くなかった気がするんだけど」
前野はまた笑った。俺も笑う。
「確かに中学のときは全然勉強しなかったわ、俺」
「わかった、前野くん文学部でしょ」
「いや、残念ながら経済学ですよ」
「え〜、なんで。宮内くん尾崎紅葉とか好きだったじゃん」
そんなことを前野は憶えてたんだ。でも、前野が俺について覚えているは俺が前野について覚えてることよりも圧倒的に少ないだろうな。
俺はいつも前野を見ていたから。
昼休みに、太宰を読む前野に始めて話しかけた。前野は文学少女だったから、よく太宰や樋口について話した。少年漫画や、タレントが学芸会みたいに演じるドラマが好きなクラスメートと違って俺と同じ、大人なんだと思ってた。特別なんだと思ってたんだ。
俺は前野に夢中になった。一世一代の勇気を振り絞って一緒に図書館へ行こうと誘った。
学校の帰り道、自転車の後ろに前野を乗せて図書館へ向かったときは本当に仕合わせだった。まるで恋人同士みたいだったから。
でも同時に気づいていた、前野は俺のことを恋愛対象としては見てないってことに。俺に対する前野の態度は、まさに友達に対するそれだった。
あんなやつが涼子に釣り合うわけないじゃん。
幾度となく聞こえてきた台詞だ。言われなくてもわかってたよ。前野は高嶺の花だもの。それでも、前野の前では馬鹿なことをして、笑ってくれるのが嬉しくて…。身の程はわきまえてるつもりだった。
それからしばらくして、俺にとって前野は特別ではなくなった。
前野に恋人ができたからだ。
前野とは一番仲が良いと一人で思い込んでいたから、前野が知らないうちに付き合い始めていたことが俺を打ちのめした。前野のことならなんでも知ってると思ってたから。
でも馬鹿な話だ。
よくよく考えてみれば前野との時間は休み時間のちょっとの間と、帰り道くらいのものだったのに。それ気づいたとき、俺は…。
「俺さ、黒髪の前野が好きだな」
「なにそれ」
「大学決まってすぐに髪染めただろ。典型的な大学デビューみたいだぞ」
「うるさいなぁ、ほっとけ」
「大和撫子たるもの、黒髪じゃないと」
「うちの親と同じこと言うんだ、宮内くん」
茶髪も似合ってるよ。
「俺さ、そこの喫茶店でバイトしてるの。小塚と来てくれよ」
「いじらないでよね、小塚くんとはもう別れちゃったの」
…別れたのか。もったいないな。
「じゃあ、私もバイトあるから」
「そっか、じゃあな」
前野が手を伸ばせばすぐに手が届く距離からどんどん離れていく。茶色の髪とロングコートが夕焼けの空と混ざって、後ろ姿がどんどん小さくなって見えなくなるまで、俺はそこに立ち尽くしていた。
実は少し実体験が入ってます 笑