第十一話 お別れの挨拶
翌日。
散々寝坊を繰り返し、夜行性になりつつあったわたしの身体ではありますが、先日の疲れが強かったせいか、昨夜はぐっすりと熟睡することができました。
べちょり
と、わたしの顔面をダークマターが覆いつくすまでは、の話ですが。
「ぶへあっ!」
おおよそ凛とも可憐ともかけ離れた、はしたない声を上げるわたし。
しかし、寝ているときに未知の物体を顔面に――それもぽっかりと開けた口の中に入れられては、誰だってそんな声を出すというものです。
飛び起きてみると、そこにいたのは一夜さんでした。
「あびゃびゃ、な、なんですかいきなり! なにをするんですかっ!」
流石のわたしも、安眠を妨げられたら不機嫌をぶつけないわけにはいきません。
ぺっぺ、と口の中に入った物体Xを吐き出しつつ、にらみつけます。
一夜さんはにんまりと口元を釣りあげて、
「はっ、そんな呆けた顔で寝ておるからじゃ。よだれが出ておるぞ、ついでに鼻水もな。怒るにもそれではあまりに滑稽じゃろうて」
むっかー!
そんな言い草があるでしょうか!
「なんですかいきなり。というか、鼻水どころの騒ぎじゃないですよ。イカスミをぶちまけられても、ここまではいかないでしょう。しかも、ちょっと飲んじゃいましたし」
「ふむ、飲んだか。……お主は冬虫夏草というものを知っておるか?」
「怖いことを言わないでください。そして話を反らさないでください」
ちなみに、冬虫夏草とは蛾の仲間に寄生するキノコの一種です。
蛾の幼虫に寄生した冬虫夏草の真菌は、幼虫とともに冬を越し、春になるとそれを栄養にして、夏に地面から芽を出します。おぞましい話もあったもんですね。
びーっと手鼻をかんで、ベットとして使っていた根っこにこすりつけます。
半ばやけくそです、わたし。
「本当、お主は凛ともせんし、可憐でもなければただの粗暴なおてんば娘ではないか。そんなことをしてマルモが見ていたら激怒するぞ? あやつも大概短気じゃからのう」
「そうさせるのはあなたなのでは?」
「……む? もしや、本気で怒っておるのか?」
「当然です」
わたしの言に、一夜さんはしゅんと顔をうつむかせました。
溶けかかっている長い黒髪をいじいじと触りつつ、
「……それは、あいすまん……。ほんのおちゃめのつもりじゃったのだが……悪かった、そんなに怒らんでくれ……」
「…………」
申し訳ないという思いが、ありありと顔に仕草に表れていました。
声のトーンもいくらか下がっているように感じます。
…………もう。
「それで、ご用向きはなんですか? まさか悪戯するために来た、という訳でもないんでしょう?」
「ああ、それな」
一瞬不安を見せた顔が、山の天気みたいにすぐに立ち直りやがりました。
忘れていました。
このキノコ、動作やしゃべり方に少なからず演技的な部分があるのです。
「いやなに、大したことではない。もうそろそろ、わしも死ぬから。じゃからいまは挨拶回りをしているところなのじゃ。知らん仲ではないし、マルモのついでにお主もと思ってな」
「……ふぁ?」
いきなりのことに、今度は間抜けな声が出てしまいます。
「一夜さん、死ぬですか?」
「言ったろうて、よう持って明後日とな。まあ。先を越された形になってしまったがの」
そんな風にかるーく言われてしまうと、言及しにくいものがありました。
なんというか……このキノコにとっての死の概念とは、わたちたちと異なる部分があるようです。
「お主はこれからどうするのじゃ?」
「わたしは……前に言った姉に、故郷に戻ろうと思います」
「ふむ?」
くりくりっとした一夜さんの目が、わたしを見据えました。正確に言えば背丈の関係上、わたしが見降ろしていたので、一夜さんは見上げる形なのですが。
わたしはまっすぐに見返します。
ふっと、一夜さんは表情を和らげ、微笑しました。
「なかなかどうして、いい眼をしておる。ならば言うことはない。これも何かの縁じゃったのだろう、心から幸運を祈っておるよ」
「ありがとうございます」
「達者でな」
「一夜さんこそ。御達者で」
「ふふ、縁があれば――いずれまた相見えるじゃろうて」
そう言って、一夜さんは踵を返します。
くるっと回った拍子に、溶けた胞子が飛んでわたしのドレスを汚しましたけど、なんだかいい雰囲気だったので頑張って呑み込みました。
代わりに違う言葉を一夜さんの背中に放ちます。
「……それ、やっぱり融けてますよね?」
「だからそういう体質じゃと言っておろうが」
「なぜカタコトですか――って、カタコトじゃないっ!?」
「黙れ。……まったく、本当にお主は最後まで締まらん奴じゃ」
別れ際、一夜さんは満面の笑みを見せ、そして行ってしまいました。
わたしはぼうっと、その姿を見届けます。
「…………」
こういうのを感傷に浸る……と言うのでしょうか?
やだなあ、なんか。
しかし今日のわたしには、やることが多くあります。
「……さて、と」
わたしは立ち上がり、歩き出しました。
*
とりあえずと向かったのが川。
先日の荒れた水面の面影はなく、すでに透き通るような水が流れていました。
一夜さんの液体胞子、通称ブラックマタ―を顔面に浴びたのも、ここに来た理由のひとつにはあります。けれど、お別れの挨拶に身だしなみを整えるのは、やはり礼儀でしょう。
ぱしゃぱしゃと顔を洗い、白いドレスについた汚れも丁寧に落として、手頃な岩に干しておきます。ここ数日で泥まみれになったパンプスも同様に。
いつもとは違う華やかなオシャレを――と、長い後ろ髪を束ね、ハーフアップにします。編み込んだ横髪も後ろへと流して、白薔薇の髪飾りをアクセントに添えれば完成です。
「えへへ、可愛いかなぁ?」
地面に残っていた水たまりを鏡につかい、確認します。
ショーツ姿の幼児体型の白い髪の女の子が、その中からわたしを覗き込んでいました。
……うん。
盛れば盛るほど幼くなっていくという、このジレンマはなんなのでしょうね?
胸でしょうか?
やはり魅力的な女性像には、ある程度の膨らみが必須に思えます。
現実問題、哀カップのわたしにとって、それは大きなネック。
「…………」
でも、華麗は無理でも、可憐ならいけます。(たぶん)
凛として可憐に――それがわたし。
「どうですかね、この髪型」
「うへぇ! いーちゃん、かぁーいぃ!」(和歌恵ちゃんの声真似)
「実はですね、今日はお別れを言いに来たのです……」
「そんなまさか! ずっとここに居ればいいのに、あたしさみしーよ、いーちゃん」(和歌恵ちゃんの声真似)
「ええ、わたしも寂しいです。でも……でも、それは駄目なのです。別れは辛く、悲しい……けれど、わたしはそれを乗り越えて、おねえちゃんのところに帰らなければいけないのです。およよ……」
「本当に……行っちゃうの?」(和歌恵ちゃんの略)
「決心は固いのです」
「そっか、いままでありがとう。いーちゃん」(略)
「さようなら友よ。また会うときまで――…………」
ざざざ……、と。
木々が風に葉を擦らせる音に包まれ、薄い水たまりに向って独り芝居しているキノコの図が、そこにはありました。
ていうか、わたしでした。
傍から見ればそれは不気味に映っていたことでしょうね。(他人事)
「…………」
素に返ってみて、自分なにやってるんだろう? と落ち込みます。
でも、
こうやって鼓舞でも打たないと、笑顔でみんなに向き合える自信はありません。
さよならって、言える自信が持てないのです。
寂しいじゃないですか、だって。
別れって、
切ないじゃないですか。