東海への憧憬:エピローグ
「こういう字だよ」
紫は棒で地面に文字を書いて見せました。左肩に巻き付いている赤坊がへえと声をあげます。
「なんだかたいそうな文字だなあ。おれと姐さんに内緒で出ていったわりには偉そうですぜい」
赤坊はちょっとだけ落ち込んでいるようでした。紫だってそうでした。けれど落ち込んでいる赤坊をほおってはおけません。指先で頭を撫で、そうして文字を示してみせました。
「でもいい名前だね。蘇芳、これね、赤の色の別名なんだよ」
「え、そうなんすか」
「うん。そうか、だから赤坊と一番仲が良かったのかもしれないねえ」
そういって紫は微笑みました。
赤坊は嬉しそうにし、そうして青坊は何も言わずに紫の肩に頭を預けております。
その頭をそれぞれ撫でて、紫は空を見上げました。
そうして、二度と会うことのないだろうサトリの子供のいく末が幸せであるようにと思いました。
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紺碧の海は水平線の向こうまではるかに遠く続いております。陽の光にさまざまな青に色を変える美しい波は、まるで砕いた宝石のようにしぶきをあげながら動いておりました。
黒髪の青年は、その深い闇色の瞳を細めてその彼方を見つめます。心を見透かす瞳をもってしても、東のかなたにある島国に住むやさしいあやかしたちの詳細はわかるものではありませんでした。
「スオウ、どうしたの? 」
涼やかな声が耳を打ち、蘇芳は黙って振り返りました。そこに居るのはこの西の国での彼の恩人の姿でした。
恩人である可憐な少女は、寡黙な男に向かってくすりと笑います。
「貴方はほんとうに海が好きなのね。よくそうして東の方を眺めているわ」
大人になり、すっかり無口になってしまった蘇芳は頷きました。そうして足を取られて動きにくい砂浜に苦戦している少女に向かって手を差し伸べます。
決して帰ることのできない東の国。
すでに彼の居場所は西にあり、そうしてそれはとても喜ばしいことでした。
それでも東の海を見るたびにほんの少しだけ思い出しました。
蛇神の塚を守っていた白い少女。
そうしてその少女を守っていた二匹の蛇たちに人間の男。
それは懐かしく懐かしく、そしてやさしい記憶として彼のこころにひとつの支えとして残っておりました。
ふいに吹いてきた強い風に蘇芳は瞳を細めます。
海の風が彼の黒髪をなぞり、そうしてはるかな東に向かって高く高く吹き抜けていきました。