季節外れに白い人
雲のように軽薄で。
雪のように冷酷で。
砂糖のごとく甘ったるく。
嘘みたいに白々しい人だった。
怪人事件。それがまことしやかに囁かれるようになったのはいつのことだっただろうか。
まるで特撮ドラマに出てくるような人型の恐ろしい怪物が、街に現れて暴れている……それは複数いるようで、日によって姿形が違っているらしい。
幸いにも死者こそ出ていないが、実際に建物や車が壊されたり、襲われて怪我をした人もいるという。警察はまともに取り合っていないが、被害者は一様に「怪物、怪人に襲われた」と主張している、らしい。
……伝聞調が多くなってしまったが、私自身その怪人とやらを見たことがないのだからしょうがない。てか怪人ってなくね? それこそ特撮じゃあるまいし。
「いやほんと見たんだってば! めっちゃグロくて怖かったんだからぁ~」
と、怪人を目撃した(と主張している)友人O.S.は言うが、ぶっちゃけ信じてない。ごめんねOちゃん。だって胡散臭すぎなんだもん。
「……もしかして信じてないの? Sちゃん」
「そ、そんなことないよ~」
棒読み気味に否定する。信じたいのは山々だが、信じられないことはあるのだ。
……今から思えば、少しくらい信じてあげれば良かった。
バスというものはどうしてこうも酔うのだろう。もう三年近く通学に利用しているが、未だに慣れない。
どこかで「前方の席に座ったほうが酔わない」と聞いた覚えがあるので、運転席の真後ろの一人用席に座る。見知らぬ人と隣り合う心配がないので、そういう意味でも好きな席だ。
車内には、私を除いて十人弱程度しかいないようだ。夕方にしては人が少ない。いつもならもっと混んでいるのだが……何かあったのだろうか? それこそ、怪人騒ぎとか。
「……なんちゃって」
怪人なんているわけないし。我ながら下らない冗談を言ってしまったものだ。
「そうとも限りませんよ?」
声をかけられた、ということに気づくのに少し時間がかかった。
振り向くと、左後方のシルバーシートに足を組んで陣取った若い男が笑っていた。これからパーティにでも参加するのか、白いスーツを着てその上に白いダッフルコートを纏っている。
この男が声をかけてきたのだろうか。しかし、たとえそうだとしても私はこの男には関わりたくなかった。やたら白い服装もそうだが、まるで誰かに強要されているような演技じみた笑み、右目を覆う革製の眼帯など、その男の風貌は明らかに車内から浮いている。男がこのバスに居ること自体、絵本が並ぶ棚に間違って学術書が入ってしまったような場違いさがあった。
「ええ――貴女に声をかけたのですよ」
男が私を見る。紳士的な物腰だが、しかし男が浮かべる奇妙な笑顔で掻き消されているように思えた。
「『見たことがないから怪人なんていない』――少し暴論が過ぎませんか。見たことがないものを『見たことがないから』という理由で否定してはいけません。貴女は『空気は見えないから空気なんてない』と主張できますか?」
悪魔の証明。白いカラスがいないことを証明するには、世界中にいるすべてのカラスが黒いことを証明しなければならない。男が言っていることは厳密には違うが、ふとそんなことを連想した。
「カラスの白黒ですか。稀に突然変異で白いカラスが生まれることがあるそうですよ。怪人同様、白いカラスの存在も否定はできないわけです」
何故カラスに食いつく。いや、今考えるべきはそうじゃなくて。
「『何故この男は、私の心を読んだように話してくるのか』ですか? なんででしょうねえ……うくくく……」
「………………!?」
ようやく私は察した。この男はやばい。この男は何かがおかしい。私はそれをこの男の風貌を見た時点で気づくべきだったのだ。
私はその男から離れようと腰を浮かす。しかし、ここはバスの車内で、しかも今は走行中だ。一体どれほど男から離れられるというのだろう――
「う――うわああああああああああああああッ!?」
運転手の悲鳴と共に、バスが大きく揺れて急停止する。中腰だった私の身体は窓や座席にしたたかに打ち付けられた。
「……ったぁ…………」
なんなんだ一体。猫でも轢きかけたのだろうか。それにしては大袈裟な悲鳴だが……。
「いやっ、何あれ!?」
「ば、化け物だァッ!」
続けざまにバスの後方から悲鳴があがる。どうやらバスの正面にいる何かを見て怯えているらしい。…………化け物?
凄く嫌な予感がする。私は身体を起こし、前方を見た。
『――ゴ ォオ…… コワ ス…… スベテ メ チャク チャ ニ ィイ……!』
…………………………え?
なんだあれは……なんなんだあれは。
人間……ではない。直立二足歩行で人型ではあるが、あれを『人間』と称するにはいささか無理がある。赤茶色の肌に屈強な筋肉、肩や肘に生えた象牙のような角、光を放つ黒目のない若草色の瞳、胸部に埋め込まれた瞳と同じ色に輝く宝石のような物体。そんな姿形をしている人間を、私はまだ見たことがない。
言うならばそう――怪人だ。液晶画面の向こう側にしかいないはずの怪物が、バスの正面で仁王立ちしているのだ。
「て、テレビの撮影だろぉ……?」
どこかからそんな声が聞こえる。出来れば私もそう信じたかった。だが現実はそう甘くない。怪人はゆっくりとバスに歩み寄り、握った拳をフロントガラスにぶつけた。
「うわああああああああああ!?」
フロントガラスは粉々に砕け散り、乗客たちはパニックに陥った。一人が後方の非常口から脱出したのを皮切りに、乗客たちは次々とバスから逃げ出していく。運転手も我先にと走っていった。
私もそれに続こうとするが……いつの間にかあの男が、道を阻むように通路の真ん中に立っていた。男は相変わらず笑っているが、どうやら私をバスから脱出させまいとしているらしい。
「ど……どいてください」
無駄だと直感していたが、それでも私は声をかける。
「あなたも逃げなくていいんですか……?」
男は何かを期待しているような、そして何かを喜んでいるような複雑な笑顔を浮かべている。そして「うくく」とわざとらしい笑みを漏らした。
「これで貴女にもわかったでしょう?」
ぐらり、と足元が揺れる。振り返ると、先程までいたはずの怪人の姿が見えなくなっていた。代わりに、窓から見える外の景色がどんどん高くなっていく。
「白いカラスが存在するように――『怪人』もまた、この世界に存在しているのです」
一瞬の浮遊感――そして永遠のような墜落感。窓の外がめぐるましく動いていき、私の身体は重力に弄ばれる。
私は天井に向かって落下していった。
くじ引き機の中で回されている玉になった気分だった。
数えきれない程身体をぶつけ、全身が激痛に苛まれる。幸い骨折はしていないようだが、しばらくは動けそうにない。
「うくく――ひどい有り様ですね。お怪我はありませんか?」
男は何事もなかったかのように立っていた。天地が逆転した車内で、それが当たり前のように床に立っていた。そして、まるでたった今乗ってきた客みたいに、ごく自然に先程まで私が座っていた席に座るのだった。
「……………………」
「何故」とか「どうして」はもう訊かない。
この男はそういう存在なのだ――当然のように人の心が読め、当然のように天井に立つことが出来る、そういう存在なのだ。
「物分かりが良いのですね。助かります」
男は私を見上げ(見下ろし)て笑う。
「ところで、早く逃げたほうが良いのでは? いつまでもそこで這いつくばっていたら、また『怪人』に襲われますよ?」
「………………」
誰のせいでこうなったと思ってる。そう言おうと思ったが、どうせこの男は心が読めるのだから、そう思うだけで充分だと気づいた。
「ああ、そのことについては申し訳ありません。ちょっと話がしたかっただけなのです。まさかあの方がバスをひっくり返すとは思っていなかったので」
嘘だ。絶対嘘だ。最近見た映画っぽく言うなら「異議あり!」と叫ぶところだ。
「うく、まあそれはそれとして。貴女はあの『怪人』を見てどう思いましたか?」
いきなり話題を変えてくる。怪人を見てどう思ったか?
「ええ――人知を超える力を持つ、『人間』の更に先を行く存在。羨望なり畏怖なり嫉妬なり恐怖なり、何か思うことはありませんでしたか?」
人知を超える力を持つ――怪人。見た目こそおどろおどろしかったが……しかし、フロントガラスを一撃で粉々にし、バスを簡単にひっくり返すその力は、私のような運動音痴から見れば、ときめきというか、一種の憧れを覚える。
「憧れますか」
男は誇らしげに、そうだろうそうだろうみたいな顔をした。いや、笑っているだけなので本当のところどうなのかはわからないが、なんとなくそんな気がした。
「良かったら差し上げますよ?」
え? くれるの? やったあ。もしかしてこの人、意外にいい人なんじゃ…………………………
…………………………え?
……この男、今、なんて。
「そのままの意味ですよ。あんな風になれる力を、貴女にも差し上げましょう」
男の口が三日月のように釣り上がっていく。楽しくて楽しくて仕方がないという彼の心情が伝わってくる。
「彼……あの『怪人』も、なかなか素敵に変身してくれたのですが、とある『敵』と相対するにはいささか戦力不足でして。あと一名ほど必要だったんです。『怪人』が」
私はようやく気がついた。いくら動けないからといって、悠長にこの男と話し込んでいるべきではなかったのだ。あのとき、この男の異常さに気づいた瞬間に、這ってでもこの男から離れなければならなかったのだ。
でも……もう遅い。私の身体はいつの間にか、痛みではない別の『何か』に支配されていた。
その『何か』はきっと……男の眼帯に覆われながら、それでもなお隠しきれない光を放つ右目によるものなのだろう。
「うくく……しかし、いくら足りないからとはいえ、何も知らない女の子を『怪人』にするのは、私と言えども良心が痛むんですよ。良かった、貴女が憧れを抱いてくれて」
……私はどうやら、いたずらで非常ベルのボタンを押すつもりで、間違って核兵器発射ボタンを押してしまったようだ。自分でも何言ってるかさっぱりわからないが、とにかく迂闊なことをしてしまったことは確かだ。
「よいしょ、と」
男は微妙に年齢を感じさせるかけ声で、座ったまま天井(床)を蹴って床(天井)に飛び降りた。落下の途中で宙返りし、私の顔の真横に着地する。
「さて……とりあえず、口を開けてくださらないでしょうか」
どこからともなく飴のような玉が詰まった瓶を取り出しながら、男は私にそう『命令』した。すると私の意に反し、私の口はがばっと顎が外れそうになるほど開いてしまった。
「ぁが……!?」
「虫歯一つない綺麗な歯ですね。私は歯が白い女性が大好きですよ」
口説き文句まがいのことを言いながら男は瓶から空色の玉を取り出す。
「はい、あーん」
「……あ、あぁああ……ん……!」
男は口の真上に玉をぶら下げた。それを飲んではいけない、と本能的に感じたが、いかんせん口が言うことをきかない。それでもどうにか閉じようと試みていると、男は突然手を玉ごと口の中に突っ込んできた。
「んぅ!?」
「ああ、すみません。ちょっと手が滑りました」
男の手が引き抜かれる。その手には玉が握られていない。空色の玉は今、私の舌の上に転がされていた。
「はい、ごっくん」
「んぅ……んぐぅ……!」
私は玉を飲み込んだ。もはやどこまでが自分の意志かわからなくなっていた。玉は途中で詰まることなく、ゆっくりと体内へ下っていく。
「んぁ……あ、ああ……あああああ……っ!」
玉が胃まで達したとき、私の身体に異変が起きた。熱い、身体が熱い! 血液が沸騰し、内臓が燃え上がるように熱を上げる。身体が内側から炙られているようだ。
「うくく。大丈夫、死ぬことはありません。じきに熱も収まるでしょう」
私は大粒の汗を流しながら、ふと近くにある広告板を見た。縁は金属になっていて、そこにちらりと映っている私は、…………私は………………!
「いやあああああああああああああ!」
「おやおや、見えてしまいましたか。そうです。あれは紛れもなく貴女自身の姿です」
男の話も聞かず、私は声が枯れるまで叫び続けた。そのうち声が少女のものから、獣のような唸り声に変わっていく。
私の姿は…………あの怪人によく似た、この世のものとは思えない化け物に変化していた…………。
「ああ、そういえば名乗り遅れましたね」
男は立ち上がって、眼帯を外しながら言った。
「私の名前はウェンズデイです……『怪人』ならぬ『改造人間』の、ウェンズデイです」
どこから白い霧が現れ、男の身体を包み込む。霧が晴れるとそこには、右目が潰れ、カラスのような羽根を纏った、胸元に黒い宝石を輝かせる白い怪人が立っていた。
薄れていく意識の中で私はふと、今日が水曜日でホワイトデーだということを今さら白々しく思い出していた。
近々書く予定の小説のプロローグのつもりで書きました。