足を踏み外したら、人生が変わりました
その日は、何かが起こりそうな不思議な予感があった。
こういった予感は、今までにも何度か経験していたので、彼女は落ち着かない気持ちを抱えたまま一日を過ごしていたのだが──気を付けていたのに、彼女は盛大に階段で足を踏み外した。
踏み外すと同時に、周囲の空気が変わった気がした。そう、まるで何処かに放り投げられたかのような感覚だった。
それを証明するかのように、瞬きひとつの間に滲むような空の青が視界一杯に広がり──重力に従い、まばゆい緑色の大地に向かって落ちていく。
「ひっ……!」
一気に、全身に感じる風圧と、耳に吹き込む凄まじい音。
落下している。階段から落ちただけなのに、空から大地へ。
お腹がひっくり返りそうな冷えた感覚に気付いた瞬間、彼女の唇から漏れたのは悲鳴にすらならない鋭い吐息で。
迫りくる死の恐怖から、逃れるかのように意識が遠のきかけて──いや、気絶している場合ではないのでは? と、ふと冷静な考えが過った時、何かが緑の平原を猛然とした勢いで駆けてくるのが見えた。
激しく揺れる視界は定まらず、ほとんど目も開けていられない状況だというのに、何故か見えたのだ。
点にも見えたその『何か』は人だった。
そして、ものすごい勢いで切り立った崖まで駆け抜けた人が彼女に向かって両手を掲げた途端、目を閉じ顔を顰めるほどの轟音と圧が消えていた。
同時に、身体があたたかな何かに包まれるかのように空中で固定される。ふわりとした柔らかな何かが、頭からつま先まで身体の表面を撫でると、風に煽られた髪や涙と鼻水で濡れた肌が整えられていく。
そのまま、重力に逆らった動きで身体が崖の人影に向かって引き寄せられた。
まるで意志を持っているみたい。
突然の恐怖から解放されて、ぼんやりと涙で潤んだ瞳を瞬く彼女の視界に、こちらを見上げている人の様子が映り込む。
太陽に煌く金の髪は、ゆるく癖がついていてふわふわしている。触れば、きっと柔らかいのだろう。
その側頭部には人間の耳はなく、代わりに頭頂に向かってもふもふの猫耳が生えている。そして、端正な面持ちの中でも特に印象的な、ややつり目の瞳は金に縁取られた鮮やかな緑色をしていた。
きらきらと瞬く大きな瞳に魅入られている間に、彼女の身体はしっかりとした腕に抱き止められていた。
その細身に見えるしなやかな身体には、見た目に反して鍛え抜かれた筋肉と太い骨が蓄えられていることを、彼女は身をもって知った。
つまりは、お姫様抱っこという今の状況である。話は変わるが、制服のスカートから覗く生脚に触れる、滑らかな猫の尻尾が擽ったい。
食い入るように彼女をまじまじと見つめたあと、ごくりと喉を鳴らした、やや歳上に見える少年が僅かに震える声音で囁く。
「あっ、あの、貴女の名前は?」
「み、美空です」
「みゃあ?」
「みあ」
「みゃあ」
「……み、あ」
「……みぃやぁあ」
ぺそっと猫耳を寝かせ、眉を八の字に下げた少年が小首を傾げる。
どうしよう、可愛い。
表情筋が震えるのを感じて、美空が頰に手のひらを当てていると、金に縁取られた綺麗な緑の双眸が彼女を見て柔らかく細まった。
「……僕の唯一無二の番、愛しい人」
「え?」
番? 愛しい人?
「僕と生涯を共にしてください、愛しい人」
「え? え?」
「僕の愛しい人、みゃあ……みぃ……んんっ、貴女のことだよ」
目尻をほんのりと染めて、紡がれる言葉に美空は動きを止める。
「……あの」
「うん、なあに?」
蕩けそうに甘やかな双眸を、ゆるりと細めて囁く耳朶を震わせる声音に、美空は華奢な肩を思わずすくめた。
間違いなく、顔が真っ赤だ。
喉を鳴らして小さく笑う彼の表情が、それを物語っている。
「つがいって何ですか?」
「魂の伴侶。唯一無二の、この世にひとりしかいない片割れという意味だよ」
美空の頭に頬を擦り寄せ、ごろごろと低音を鳴らす喉から零れたのは、甘さをこれでもかと増し増しに増したでろでろの重苦しいハートが飛びそうなほど蕩け切った声で。
「……ええ……?」
困惑し切った顔で呟かれた声に、少年は蕩け切った余韻のまま微笑んだ。
「んんっ……」
どうしよう、控えめに言っても顔が良い。
美空は混乱していた。慣れ親しんだ環境から、突然見知らぬ場所へと放り出された挙句の、良くわからない『番』発言である。
混乱したまま、彼女は腕に絡みつく彼の金茶の尻尾をぎゅむっと握る。
「……っ!?」
途端に、彼の身体がびくんっと跳ねて、みるみる内に顔が真っ赤に染まった。そして、美空の華奢な身体を抱き込むように背を曲げ、熱い吐息を漏らす。
「みゃあ……そこは、だめ……んぅっ」
「ひえっ」
耳元に吹き込まれた艶やかな声に、美空の身体も同じように跳ねた。
「ごっ、ごめんなさい」
彼女が慌てて尻尾を離すと、名残惜しげにするりと手のひらを撫でたそれが彼の後ろへと逃げる。
「だいじょうぶ……だけれど、ここは閨の時にだけ触って欲しいかな」
「……ねや?」
「ふふっ、僕の番は可愛いね」
丸めた背を伸ばして、改めて華奢な身体を抱え直した少年がゆっくりと歩き出す。
「あ、あの、どこに行くの?」
抱き上げられたままの移動に、思わず少年の胸元の服を掴んだ美空が訊ねると、彼は僅かに頬を染めたまま微笑む。
「貴女のこと、僕のこと、これからのこととか、僕の家で色々と話そうか」
「う、うん……」
離してはくれないのか と、少し遠い目になった彼女は小さく息を吐いて目を閉じた。やっぱり、混乱したままだったので。
「……はあ、みゃあ可愛い」
あと、とんでもない美形が『みゃあ』と言っては少し首を傾げる動作が可愛すぎて胸がきゅんきゅんするので、早急に発音問題をどうにかしなければならないと思う美空だった。
美「み」
猫「みぃ」
美「みあ」
猫「みゃあ」
美「み・あ」
猫「みぃ……あ」
美「みあ」
猫「みゃあ」
美「みあ!」
猫「みゃあ!」
美「……」
猫「困り顔も可愛いね?」
美「……(流れるように口説いてくる)」




