第八話
千姫が大阪城に嫁いでから、季節は巡った。
絢爛豪華な御殿での生活は、江戸城の大奥とは全く違っていた。
江戸が厳格な礼儀作法と武家の質実剛健さを重んじる場所だったのに対し、大阪は、天下の富と文化が渦巻く、華やかな都だった。
千姫の部屋には、西欧から伝来したという、珍しいガラス細工や、鮮やかな色彩の絨毯が飾られていた。
食事もまた、江戸では見ることのなかった珍しい食材が並び、千姫は毎日、その新しい味に驚かされた。
侍女たちも、江戸の菊乃のように千姫に寄り添う者はまだいなかったが、皆、明るく活気に満ちており、千姫に大阪の文化や風習を熱心に教えてくれた。
「姫様、こちらは琉球の菓子にございます。どうぞ、召し上がれ」
ある侍女が差し出したのは、ほんのりと甘い、不思議な形の菓子だった。
千姫が一口食べると、その上品な甘みが口いっぱいに広がり、思わず笑顔がこぼれた。
「美味しい…!こんなに美味しいお菓子、食べたことがありません」
千姫の素直な感想に、侍女たちは嬉しそうに微笑んだ。
千姫は、この日々の中で、大阪の文化を少しずつ学んでいった。
能や茶道だけでなく、南蛮渡りの楽器の音色に耳を傾けたり、琉球や朝鮮半島の踊りを侍女たちと共に習ったりした。
最初は戸惑っていたが、新しいことを学ぶ楽しさは、千姫の心を少しずつ解き放っていった。
秀頼もまた、千姫との時間を心から楽しんでいた。
彼は、千姫に、城内に新しくできた庭園を案内したり、珍しい書物を二人で読んだりした。
ある日、秀頼は千姫を伴い、大阪城でも珍しいという、南蛮渡来の時計を見に行った。
「千姫、これを見てください。…これは、針が動くことで、時を教えてくれるのだ」
秀頼が指差した時計は、精巧な歯車が組み合わされた、美しい工芸品だった。
その複雑な仕組みを、秀頼は瞳を輝かせながら千姫に熱心に説明した。
「この小さな歯車が、互いに噛み合い、そして大きな歯車を動かす。そうして、この針は正確に時を刻むのだ」
千姫は、秀頼の言葉を、ただ興味深げに聞いていた。
「不思議ですね…!でも、どうして時がわかるのですか?」
千姫が純粋な疑問を口にすると、秀頼は、まるで教師のように、千姫に分かりやすく説明してくれた。
「この歯車が、互いに噛み合い、動くことで、時を刻むのだ。
「まるで、この城を動かす、私たちみたいでしょう?」
秀頼はそう言って、千姫に微笑んだ。
千姫は、その言葉に、胸が熱くなるのを感じた。
「…では、この時計の針が止まってしまったら、どうなるのですか?」
千姫の問いに、秀頼は一瞬、言葉を詰まらせた。
彼の表情に、かすかな陰りが差した。
「…それは、この城の時が、止まってしまうということだ。この城も、私自身も…」
秀頼の声は、少し震えていた。
千姫は、その言葉の奥に、彼が抱える深い孤独と、豊臣家という重い宿命を感じ取った。
彼女は、静かに秀頼の手を取った。
「大丈夫です。…たとえ時計が止まってしまっても、私たち二人の心は、ずっと動き続けます」
千姫の力強い言葉に、秀頼は驚いて彼女を見た。
千姫の瞳は、これまでの不安げな様子とは違い、まっすぐと彼を見つめていた。
「私は、秀頼様とこの城で、たくさんの新しいことを学びました。それは、徳川の姫としてではなく、ただの千姫として、心から楽しいと感じることばかりでした」
「…だから、秀頼様がこの城を、そして私を守ってくださるように、私も、秀頼様を、この城を守りたいのです」
千姫の真摯な言葉に、秀頼の瞳には光が戻った。
彼は、千姫の手をぎゅっと握り返した。
「ありがとう、千姫。…そなたの言葉は、私にとって、何よりも心強い」
二人の間には、身分や立場を超えた、確かな絆が生まれつつあった。
それは、政略結婚という冷たい運命が、二人の手の中で、温かい愛情へと変わっていく瞬間だった。
しかし、その小さな幸せの影には、徳川と豊臣、二つの家の思惑が、複雑に絡み合い始めていた。




