第六話
千姫は自室で何度も思い返していた。
淀殿の圧倒的な威圧感と、それとは対照的な秀頼の優しさ。
その両極端な印象が、彼女の心を揺さぶった。
特に、秀頼の瞳の奥に宿る深い孤独は、千姫の胸に強く響き、まるで自分と同じ寂しさを抱えているかのように感じられたのだ。
千姫は、部屋の片隅に座り、窓の外の月を眺めていた。
夜の大阪城は、昼間の喧騒とは全く違う顔を見せていた。
活気は影を潜め、代わりに、重厚な静けさが城全体を包み込んでいる。
月明かりに照らされた石垣は、その影をさらに濃くし、まるで巨大な怪物が眠っているかのようだった。
その時、襖の向こうから、かすかな話し声が聞こえてきた。
千姫は、好奇心に駆られて、そっと襖に耳を当てた。
声の主は、淀殿と秀頼。彼らが話す内容を、千姫は一言も聞き逃さないように、神経を集中させた。
「秀頼、そなたはあの娘をどう思う?」
淀殿の声だった。
いつもと違い、その声には、威厳の影はなく、ただ、母親としての深い愛情が感じられた。
「…とても、可愛らしい方です。母上によく似ておられるように思います」
秀頼の声も、普段よりも少し幼く、無邪気に聞こえた。
その言葉に、千姫は安堵を覚えた。
しかし、次の淀殿の言葉が、その安堵を一瞬で打ち砕いた。
「そうか。…しかし、そなたは、あの娘の父を…徳川の血を引く者を、決して心から信じてはならぬ」
淀殿の声が、再び厳しさを帯び、氷のように冷たい響きを持った。
千姫は、心臓を直接掴まれたかのように感じ、その場に固まった。
「母上、何を言っておられるのですか!」
「私は、千姫を妻として迎えるのです。徳川様は、この結婚を許してくださった。どうして信じてはならぬと……」
秀頼の声は、先ほどの優しい調子とは打って変わって、強い戸惑いと反発に満ちていた。
彼は、この結婚が、ただの政略ではないと信じたいのだろう。
「わかっておらぬな……秀頼。これは、徳川の策よ。太閤様が築かれた豊臣の世を、虎視眈々と狙っておるのだ」
「そなたが、徳川様の血筋を身近に置くことで、豊臣の力が弱まるのを待っておるのだ。お前は、そのことを忘れてはならぬ」
淀殿の言葉は、まるで巨大な波のように千姫に押し寄せた。
自分の存在が、ただの政略の駒であることを、改めて突きつけられたのだ。
千姫の小さな体は、恐怖で震え始めた。
「……では、私はどうすれば良いのですか? 千姫を、信じず、遠ざけるべきと?」
秀頼の声は、千姫と同じ、不安と悲しみに満ちていた。
千姫は、思わず涙がこぼれそうになった。
秀頼は、自分と同じように、この運命に抗うことができずにいるのだ。
「秀頼、そなたは豊臣の跡継ぎ。太閤様が築かれたこの天下は、そなたが守らねばならぬ」
「たとえ、この先、何があろうと、そなたは豊臣の主として、強く生きねばならんのじゃ」
「千姫は……千姫は、あくまで、豊臣と徳川を結ぶ、橋なのだ。その橋を、どう使うかは、そなたの双肩にかかっている」
淀殿の声は、静かだった。
しかし、その声には、深い悲しみと、そして、我が子を守ろうとする母の、壮絶なまでの覚悟が宿っていた。
千姫は、その言葉を聞いて、淀殿の威圧的な態度が、秀頼を守るためのものだったのだと悟った。
彼女は、我が子を、この天下の渦から守ろうと必死に戦っているのだ。
千姫は、そっと襖から離れた。
外の月明かりが、彼女の小さな体を優しく照らしていた。
千姫は、秀頼の孤独の理由がわかった気がした。
彼は、淀殿の大きな愛と、豊臣の重い運命の狭間で、一人、戦っているのだ。
千姫は、静かに決意した。
この結婚は、ただの政略結婚かもしれない。
しかし、自分は、秀頼の味方になろう。
彼の孤独を、少しでも和らげてあげたい。
七歳の小さな胸に、千姫は、夫となる少年への、かすかな愛情が芽生えるのを感じていた。
彼女は、もう一人ではない。
二人の孤独な魂が、この巨大な城の中で、静かに寄り添い始めていた。




