第六十話
寛永5年(1628年)の春、江戸城の庭園は、薄紅色に染まった桜の花が、雪のように舞い散っていた。
風が吹くたび、花びらは渦を巻き、地面に薄い絨毯を敷き詰めていく。
その散りゆく花の命を映すかのように、千姫と勝姫は最後の別れの時を過ごしていた。
勝姫は、この日、父・秀忠の養女として、池田光政のもとへ嫁ぐことになっていた。
その晴れの門出のはずが、勝姫の顔は晴れやかさとはほど遠く、愛しい母との別れの寂しさが深く刻まれていた。
彼女の小さな手は、千姫の手をぎゅっと握りしめ、離そうとしなかった。
「母上、わたくしはもう、この城を出てしまうのですね…」
勝姫の声は、今にも泣き出しそうなほどに震えていた。
その瞳には、すでに涙が満ちており、瞬きひとつで大粒の雫がこぼれ落ちそうだった。
千姫は、その小さな手を両手で包み込むように握りしめ、震える声で語りかけた。
「勝姫、わたくしの愛しい娘。そなたの幸せが、母の一番の願いです。嫁ぎ先では、夫を敬い、家臣や民に慈悲の心を忘れてはなりません。そして、どんな困難があろうとも、そなたが持つ徳川の姫としての誇りを胸に、堂々と生きるのです。」
「はい…母上…」
勝姫は、千姫の言葉を胸に刻むように、何度も頷いた。
そのたびに、涙が頬を伝って流れ落ちる。
千姫の脳裏には、勝姫が生まれた日のこと、小さな産声を上げた日のこと、無邪気に庭を駆け回った日のこと。
そして、言葉を交わした日々の思い出が、走馬灯のように鮮やかに蘇っては消えていった。
徳川と池田家の絆を強固にするための縁談であると頭では理解していた。
それは、彼女が徳川家の一員として背負った、逃れられない使命でもあった。
だが、理屈では割り切れない、母としての深い悲しみと喪失感が胸に押し寄せる。娘の幸せを願いながらも、二度とこの城で、この手で抱きしめることができないという事実に、千姫の胸は張り裂けそうだった。
勝姫は、千姫の表情から、彼女の悲しみを察したのだろう。
彼女は再び、決意を秘めた声で語った。
「母上から教わったことを胸に、精一杯努めて参ります。きっと、立派な妻となって、母上のお心に恥じぬよう生きてみせますゆえ…。」
その言葉に、千姫はもはや涙をこらえることができなかった。
大粒の涙が、次から次へと溢れ出す。
しかし、彼女は気丈に微笑み、勝姫の頭を優しく撫でた。
「さあ、もう行っておくれ。立派な姫として、堂々と胸を張って行くのです。笑顔を忘れず、いつまでも愛される姫でいるのですよ。」
勝姫は、最後に千姫を深く見つめ、その姿を瞳に焼き付けるかのようにしてから、静かに輿に乗った。
輿が動き出し、城門をくぐって遠ざかっていくのを、千姫はただじっと見つめていた。
輿が完全に視界から消えると、彼女は立っていることができず、力なくその場に崩れ落ちた。
溢れ出る涙を拭うことさえせず、ただただ嗚咽を漏らし続けた。江戸城の庭園に、悲しい母の声だけが響き渡る。
桜の花びらは、まるで千姫の悲しみを拭うかのように、彼女の肩に降り積もっていた。
勝姫が嫁いでからというもの、江戸城の御殿は、千姫にとって以前にも増して広く、静かに感じられた。部屋に響くのは、自分のため息ばかり。
「この悲しみに、心を奪われてはならぬ。わたくしには、徳川の世を守り、そして娘の幸せを見守るという、課された使命があるのだ。」
千姫は、自分にそう言い聞かせた。
それは、彼女の人生が、一人の女性としての幸せだけでなく、徳川家の繁栄という大きな運命に縛られていることを改めて自覚する瞬間だった。
彼女は娘の幸せを願い、手紙を送ることを決意する。
勝姫が嫁いだ後、千姫が勝姫に送った手紙は「天樹院書状」として知られる。
それは、千姫が娘の幸せを遠くから見守るための、唯一の絆であった。
その手紙には、娘の体を気遣う言葉、嫁ぎ先での心得、そして母としての深い愛情が綴られていた。
それは、ただの書状ではなく、遠い地にいる娘との唯一の心の対話であった。
また、千姫は、徳川の天下を磐石なものにするという、もう一つの使命を自覚するようになっていた。
彼女は、その立場ゆえに、いつまでも悲しみに囚われているわけにはいかなかった。
千姫は、その存在感を示し始める。
彼女は、悲しみと孤独を抱えながらも、徳川家の姫として、その使命を全うするために、孤独な道を歩み始めたのだった。




