第五話
案内された大広間には、徳川家の人間を迎え入れるべく、絢爛豪華な調度が並べられていた。
しかし、千姫の視界に入ってきたのは、まず、その広間の奥に座する一人の女性だった。
豊臣秀吉の側室であり、天下の御世を裏で支える女傑、淀殿。
千姫は、その姿を見た瞬間、息をのんだ。
淀殿は、まるで光を放っているかのように華やかで、その美しさには、圧倒的な威厳が宿っていた。
彼女が身につける打掛は、ただ豪華なだけでなく、色鮮やかな刺繍が幾重にも施され、その一つ一つが、彼女の権力と威信を誇示しているようだった。
彼女の瞳は、千姫の心の奥底まで見透かしているようで、そこには、慈愛と、そして、冷たい計算が混ざり合っているように見えた。
それは、彼女がただの豊臣秀頼の母ではなく、滅亡した名家・織田家の血を引く者として、そして、豊臣家の命運を背負う者として、どれほどの苦難と戦いを経てきたかを知らしめるようだった。
「よう参ったな、千姫よ」
淀殿の声は、涼やかで、広間に響き渡った。
千姫は、緊張で言葉が出なかった。
徳川の姫として、彼女は礼儀作法を完璧に叩き込まれていた。
しかし、淀殿の前に立つと、そのすべての知識が、まるで役に立たないように感じられた。
淀殿は、千姫を上から下まで見つめ、その眼差しには、慈愛と、そして、冷たい計算が混ざり合っているように見えた。
「面を上げなさい」
千姫は、ゆっくりと顔を上げた。
淀殿は、静かに微笑んでいた。その微笑みは、千姫の心の内に、安堵ではなく、かえって深い不安を呼び起こした。
「そなたの父は、徳川様か。それとも、大御所様か」
淀殿の言葉は、まるで千姫を試すかのようだった。
その問いの真意を千姫は理解できなかったが、父の身分を問われていることはわかった。
千姫は、緊張で震える声で、答えた。
「父は、徳川秀忠にございます。…大御所様は、祖父にございます」
淀殿は、その答えを聞くと、満足そうに頷いた。
「そうか。そなたは、大御所様の孫か。徳川様の血筋を引いておるのだな」
その言葉は、千姫を褒めているようにも聞こえたが、どこか嘲りを含んでいるようにも感じられた。
千姫は、その言葉の意図を測りかね、ただ静かに俯くしかなかった。
淀殿は、そんな千姫の様子を満足そうに見ていた。
「これより、秀頼殿とご対面いただきます」
淀殿の言葉に、千姫は再び心臓が跳ね上がるのを感じた。
その言葉の合図で、淀殿の背後にある襖が、静かに開けられた。
そこには、一人の少年が立っていた。
彼こそが、豊臣家の跡継ぎ、豊臣秀頼だった。
千姫は、息をのんだ。
秀頼は、父秀忠よりも背が高く、見上げるほどの長身だった。
顔立ちは父秀吉に似て、彫りが深く、凛々しい眉の下には、力強い意志を宿した瞳があった。
彼の髪は黒曜石のように艶やかで、豊かな頬には血色が良く、その健康的な姿は、江戸城で育った病弱な武士たちとは対照的だった。
豪華な衣装を身につけているが、その重厚な生地や金糸の刺繍は、彼の堂々とした体格にふさわしいものだった。
しかし、千姫の心をとらえたのは、彼の容姿の美しさや威厳だけではなかった。
彼の瞳の奥に、幼さの中に隠された、深い孤独と、そして、どこか優しい光が宿っているのを感じたのだ。
「初めまして、千姫。…ようこそ、大阪へ」
秀頼の声は、淀殿のそれとは全く違っていた。力強く、そして、どこか優しい。
彼の言葉は、千姫の心の内に、すっと染み込んでくるようだった。
千姫は、深呼吸をして、丁寧に挨拶を返した。
「千にございます。…この度は、お招きいただき、誠にありがとうございます」
秀頼は、千姫の緊張を察したのだろう。
彼は、にこやかに微笑み、言葉を続けた。
「長旅、さぞお疲れであろう。どうぞ、楽になさってください。これから、そなたの新しい家となる場所を、ゆっくりとご案内しましょう」
千姫は、秀頼の言葉に、深い安堵を感じた。
この人は、淀殿のような威圧感を持たず、ただ一人の少年として、自分に接してくれている。
彼の言葉は、徳川家では決して聞くことのなかった、心からの気遣いだった。
千姫は、彼の言葉に、ほんの少しの安堵を感じた。
この人は、もしかしたら、自分と同じように、この巨大な運命の渦に巻き込まれた、ただの一人の少年なのかもしれない。
その日、千姫は、秀頼と共に、大阪城の中を巡った。
秀頼は、千姫に、城の歴史や、城の各所にある美しい庭園や豪華な建物を、丁寧に説明してくれた。
「この庭園は、父上が、全国から集めた珍しい石を並べて造ったそうだ」
秀頼は、千姫に、庭園の池に泳ぐ錦鯉を指差しながら、静かに語った。
彼の言葉は、淀殿のような威圧感はなく、千姫は、彼との会話を、少しずつ楽しむことができるようになっていった。
しかし、千姫の心の中には、まだ、拭いきれない不安があった。
この結婚は、徳川と豊臣、二つの家の命運をかけた政略結婚だ。
この穏やかな時間も、いつか終わりを告げるのだろうか?
夜になり、千姫は、淀殿が用意した豪華な部屋へと案内された。
部屋には、江戸では見たこともないような華やかな調度品が並べられていた。
しかし、その豪華さが、かえって千姫の孤独を際立たせた。
布団に潜り込み、千姫は、今日一日の出来事を思い返した。
淀殿の威圧的な存在感。
そして、秀頼の優しい言葉。
この二人の間にいる自分は、一体、これからどうなっていくのだろうか?
千姫の心は、不安と、そして、かすかな希望で満たされていた。
それは、この結婚が、ただの政略結婚ではなく、もしかしたら、二人の心を通わせる、新しい始まりになるかもしれないという、小さな、しかし確かな光だった。
彼女は、大阪城で、今、新たな局面を迎えたのだ。




