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姫の路  作者: 枕川うたた


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第五十六話

幸千代の死からわずか数年。

姫路の地は、再び深い喪失の影に覆われようとしていた。


千姫が唯一の希望として縋りついた最愛の夫、本多忠刻の身体が、病に蝕まれていく。


はじめは、わずかな咳だった。だが、それは次第に激しくなり、夜には高熱を伴うようになった。

咳の度に喀血し、日増しに痩せ細っていく。聡明で、強く、何よりも千姫を心から愛し、支え続けてくれたその人が、静かに、しかし確実に生命の光を失っていく。

侍医たちは、これが「労咳(結核)」であることを告げた。その言葉は、千姫の耳には届かず、ただ恐ろしい予言のように響いた。


「姫様、ご無事なれば、それがこの忠刻の願い…」


痩せ細った忠刻は、千姫の手を握り、弱々しい声でそう囁いた。

彼の瞳は、かつて千姫の心を照らした力強い光を失い、深い疲労の色を浮かべていた。

千姫は、その手を力強く握り返しながら、懸命に涙をこらえた。こらえきれずに頬を伝う涙が、忠刻の冷たい手に落ち、小さな水溜まりを作った。


「忠刻様…まだ、いかないで…」


千姫の震える声は、もはや言葉になっていなかった。

その声は、幸千代を失った時と同じ、底なしの絶望を孕んでいた。

彼女の心は、再び、あの底なしの絶望の淵へと引きずり込まれていく。

幸千代の死で一度は折れた心が、忠刻の衰弱という現実によって、さらに深く、容赦なく砕かれていくのを感じた。


そして、千姫の祈りも虚しく、運命はあまりにも残酷な連鎖を突きつけた。


忠刻が病床に臥せって間もなく、千姫の姑である久仁姫が息を引き取った。


続けて、千姫が最も頼りとしていた母、お江も後を追うようにこの世を去った。

母の死の知らせは、忠刻の病状に付きっきりだった千姫にとって、あまりにも突然で、あまりにも残酷だった。

千姫は、母の死の悲しみを心の奥底に押し込め、ただひたすらに忠刻の看病に努めた。

母の死を嘆くことさえ、許されないかのように。


次々と大切な人々を失う現実に、千姫の精神は限界に達していた。

まるで、この世からすべての愛と光が消え去り、自分だけが置き去りにされたかのような、深い虚無感に襲われた。

その喪失感は、千姫の魂を凍てつかせ、彼女の心を死の世界に引きずり込もうとしているかのようだった。


忠刻は、自らの余命を悟っていた。

彼は、最期まで千姫に笑顔を見せようと努めたが、その痩せ細った顔には、もう笑顔を作る力も残っていなかった。

千姫は、その姿を見るたびに、胸が張り裂けそうになるのを感じていた。


そして、ついにその日が訪れた。


忠刻は、30歳というあまりにも若すぎる歳で、静かに息を引き取った。


「忠刻様…!」


千姫は、もはや悲嘆の声を上げることもできず、ただ茫然と、最愛の夫の亡骸を見つめていた。

彼の死は、千姫の心から最後の希望の光を奪い去った。


一方で、父の死を間近で見た娘の勝姫は、ただ静かに、その現実を受け入れていた。


「父上、なぜ、勝を置いていってしまうのですか…」


幼い勝姫は、まだ死が何を意味するのかを完全に理解できていなかった。

だが、父がもう二度と自分を抱きしめてくれないこと、優しい声で話しかけてくれないことだけは、本能的に理解していた。

彼女は、母の千姫が悲しみに暮れる姿を見て、自分も声を上げて泣きたかった。

だが、なぜか涙は出てこなかった。胸に広がるのは、ただ空っぽで冷たい、ひどく寂しい感覚だけだった。


「ねえ、母上。父上は、どこへ行ったの?」


勝姫の純粋な問いかけは、千姫の凍てついた心をさらに深く抉った。

千姫は、何も答えることができなかった。

答える言葉を、どこにも見つけることができなかった。


愛しい我が子を失った悲しみ、そして今、自分を心から愛し、支え、守ってくれた最愛の人を失った。

忠刻の死は、千姫にとって、単なる別れではなかった。

それは、彼女の生きる理由、世界のすべてが崩壊する瞬間だった。

彼女の人生に、もう希望の光はなかった。

ただ、暗く冷たい闇が広がるばかりだった。


彼女の心は、燃え尽きた灰のように、乾ききっていた。

彼女は、もはや何も感じることができなかった。

悲しみも、絶望も、怒りも、すべてが過去の感情となり、ただ、空虚な空間だけが心の中に広がっていた。


生きる意味を失った千姫は、深い虚無感の淵を彷徨い、その瞳には、もはや何も映っていなかった。

彼女は、ただ、静かに、そして冷たく、生きる屍と化していた。

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