第五十話
秋の気配がようやく感じられるようになった頃、忠刻の病状は悪化の一途を辿っていた。
夏の暑気あたりから始まった熱は、秋の涼風が吹くようになっても引くことはなく、むしろ忠刻の体を蝕むかのように高まっていった。
呼吸は次第に浅く、苦しげになり、日に日にやつれていく姿は、周囲の者たちに深い不安を抱かせていた。
千姫は、忠刻の枕元から片時も離れなかった。
昼夜を問わず、彼の額に冷たい手ぬぐいを当て続け、粥を一口でも食べさせようと尽力した。
しかし、忠刻はほとんど口を開くことができず、そのたびに千姫の心は張り裂けそうになった。
ある晩、忠刻は高熱にうなされ、苦しげなうめき声を漏らした。
その姿を見た千姫は、たまらず嗚咽をこらえながら彼の名を呼んだ。
「忠刻様…忠刻様!」
掠れた声で忠刻は、千姫に語りかけた。
「…どうか、笑って…」
忠刻の言葉は、千姫の胸に深く突き刺さった。
彼は、自分が苦しい時ですら、千姫の笑顔を願っている。その深い愛情に触れ、千姫は涙を抑えることができなかった。
「私が…忠刻様がいなければ、私の人生は成り立ちません…」
千姫は、心の中で叫んだ。彼女にとって、忠刻はただの夫ではなかった。
大坂夏の陣で家族を失い、孤独だった千姫に、初めて安らぎと幸福を与えてくれた、かけがえのない存在だった。
彼を失うことなど、想像もできなかった。
千姫は、静かに立ち上がると、文机に向かった。
筆を手に取り、硯に水を注ぐ。
その手は震えていたが、彼女の瞳には、将軍の娘としての、そして徳川の姫としての、強い光が宿っていた。
彼女は、誰もいない部屋で、実の弟である徳川家光に宛てて、心の手紙を綴り始めた。
『拝啓、家光様』
『突然の手紙、お許しくださいませ。姫路の千でございます。』
『この手紙が家光様のお手元に届く頃、私は忠刻様の病の床に伏しておるかと存じます。夏の暑気あたりから始まった熱は引くこともなく、日ごとに弱っていく忠刻様のお姿を見るにつけ、私の胸は張り裂けそうでございます。』
『大坂の陣の後、私は多くのものを失い、心に深い孤独を抱えておりました。しかし、この姫路の地で、忠刻様と出会い、初めて心安らぐ日々を送ることができました。彼は、ただの夫ではございません。私の心に光を灯し、生きる喜びを与えてくれた、かけがえのない存在でございます。』
『これまで、私は徳川の姫として、常に強くあらねばならぬと思っておりました。弟である家光様にも、弱みを見せることなど、決してございませんでした。しかし、今、忠刻様の命を前に、私はこの意地もプライドも捨て去りたいと願っております。』
『弟よ、もし忠刻様を失えば、私は、私の人生は、再び闇の中に閉ざされてしまうでしょう。どうか、どうか、そなたの御力で、忠刻様の病を治すための手段を、何卒お与えくださいませ。』
『この手紙が、弟の心に届かんことを願っております。いつか、再び家光様とお会いし、心からの笑顔をお見せできる日を、心より願っております。』
『かしこ』
手紙を書き終えた千姫は、その手紙を丁寧に折りたたみ、近臣に託した。
そして、彼女は庭にある小さな祠へ向かい、静かに手を合わせた。
「…どうか、この私の願いが、弟へ届きますように…」
千姫の祈りと、弟への切なる願いを託した手紙は、早馬に乗って江戸を目指した。
その頃、江戸城の大奥で執務にあたっていた家光のもとに、一通の手紙が届けられた。
それは、千姫から老中を経由して届けられたもので、普段の書状とは違う、どこか切羽詰まった様子がうかがえた。
家光は、手紙を開き、読み進めるにつれて驚きを隠せなかった。
手紙には、完璧な将軍の娘として、常に気丈に振る舞ってきた姉の、偽りのない弱さが綴られていた。
それは、弟として、また一人の人間として、家光の胸を強く打った。
家光は、静かに自らの過去を顧みた。幼い頃から姉と慕ってきた千姫の、そして故人となった母・江の姿が脳裏に蘇る。
常に厳格であった母が、どれほど千姫の幸せを願っていたか、そして姉がどれほどの苦難を乗り越えてきたか、家光はこの手紙ではじめて知った気がした。
「姉上…そなたは、この戦乱の世で、真実の愛を見つけたのだな…」
家光は、すぐに老中を呼び出し、忠刻の病を治すためのあらゆる手段を講じるよう命じた。
腕の良い医師たちを姫路に派遣し、高価な薬を届けさせた。家光の表情は、姉の幸せを願う、強い決意に満ちていた。
遠く離れた江戸と姫路で、千姫の切なる願いが、弟である家光に届いた瞬間だった。




