第四十九話
夏の暑さが容赦なく姫路城下を包み込む、蒸し暑い日の午後。
本丸の奥にある忠刻の居室は、分厚い壁と閉め切られた障子に守られていたが、それでも外の熱気がじわりと染み込んできていた。
忠刻は、数日前から高熱にうなされ、意識が朦朧としていた。
医者の診断は「暑気あたり」とのことだったが、その病はただの夏風邪とは異なり、彼の体力を根こそぎ奪い去っていくかのように感じられた。
うわ言を漏らしながら、忠刻は寝台の上で浅い眠りを繰り返す。
汗が玉のように額に浮かび、乾いた喉からはヒューヒューと苦しげな呼吸音が響く。
千姫は、忠刻の枕元に座り、まるで宝物を扱うかのように丁寧に看病に当たっていた。
彼女は、氷を張った桶から冷たい手ぬぐいを取り出し、忠刻の熱い額にそっと乗せる。
冷気は一瞬にして忠刻の肌に吸い込まれ、手ぬぐいはすぐに温かくなった。千姫はそれを何度も繰り返す。
「忠刻様、少しでも楽になりますように…」
彼女は、心の内で何度も祈りを捧げた。その祈りが通じたかのように、忠刻の意識がわずかに浮上した。
彼はゆっくりと瞼を開け、ぼんやりと千姫の姿を捉える。
その視線は、虚空をさまよっていた時とは違い、確かに千姫の存在を認識していた。
「千よ…」
掠れた声が、室内に響く。千姫は、忠刻が目を覚ましたことに安堵し、優しく微笑んだ。
「はい、忠刻様。ここにいますよ。」
「なぜ…ここにいるのだ。暑いだろうに、どうか部屋から出て休んでくれ。私の病は、そう簡単に治るものではないようだ…」
忠刻の言葉は、千姫への気遣いだった。
しかし、千姫は首を振って、彼の言葉を遮る。
「いいえ、忠刻様。私は決して暑くありません。それよりも、あなた様がお一人でいるのは寂しいでしょう?それに、忠刻様がご病気でいらっしゃるのに、妻である私が側におらず、どうして安らぐことができましょうか。」
千姫は、献身的に忠刻に寄り添い続ける。
彼女にとって、忠刻の存在は何よりも大切で、彼の苦しみを少しでも和らげたいと心から願っていた。
しかし、千姫のその献身が、忠刻の心を深い場所でえぐっていた。
忠刻は、己の不甲斐なさをまざまざと突きつけられているように感じたのだ。
「違うのだ…」
忠刻は、千姫から顔を背け、天井を見つめる。
千姫は、徳川家康の孫として生まれ、幼い頃から天下人の血を引く者としての重責を背負ってきた。
大坂夏の陣では、燃え盛る大坂城から九死に一生を得た。
そして、徳川家から豊臣家へ嫁いだ身として、二つの家を繋ぐ役割を背負い続けてきた。
その人生は、常に試練と苦難の連続だったはずだ。
そんな千姫は、決して弱音を吐かず、気高く、美しく、そして強かった。
それに比べ、自分はどうだろうか。
ただの暑気あたりで、こうして床に伏せっている。
妻を守るべき自分が、逆に妻に心配をかけ、その献身に甘えている。
姫路の殿として、千姫の夫として、己はなんと情けない存在なのだろうか。
忠刻の脳裏には、千姫がどれほど強い覚悟で生き抜いてきたかという記憶が、走馬灯のように駆け巡った。
それは敬愛の念であると同時に、自分が彼女に釣り合う器ではないという、拭い去ることのできない劣等感でもあった。
「……情けない」
忠刻がぽつりと漏らした言葉は、自嘲と深い絶望に満ちていた。
千姫はそれを聞き逃さず、そっと忠刻の手に触れる。
「何を仰るのです、忠刻様。病に伏せるのは恥ずべきことではありません。」
「違う…そうではないのだ、千よ。私は…この病弱な体が憎い。あなたのような強い女性を、この私が守ってやれるのかと…」
忠刻は、千姫の手を払い除けるようにして、苦しげに言葉を続けた。
彼の心には、千姫の存在が大きければ大きいほど、自分の不甲斐なさが重くのしかかっていたのだ。
千姫は、忠刻の苦悩を初めて目の当たりにした。
彼女は、彼の体を案じていたが、まさか、彼がこれほどまでに自信を失っていたとは思いもしなかった。
自分は彼のことを思って行動しているのに、その優しさが、逆に彼を苦しめている。
千姫は、どう言葉をかければ良いのか分からず、ただ黙って忠刻を見つめることしかできなかった。
夫婦の間に、重い沈黙が流れる。忠刻は自らの苦悩を吐露したことで、さらに孤独を深めていた。
千姫は、忠刻の気持ちを理解したいと強く願ったが、言葉にできない彼の心の壁に阻まれ、ただ歯がゆさを感じるばかりだった。
二人の心は、まるで異なる場所にあるかのように、少しずつすれ違い始めていた。




