第四十七話
冬の夜の帳が静かに下り、姫路城は深い静寂に包まれていた。
障子の向こうで、冷たい風が細く鳴いている。
千姫は、忠刻と共に温かい布団の中で眠りについていたが、その寝顔は穏やかではなかった。
眉間に深い皺が寄り、口元は微かに震えている。
──ドォォォンッ!
遠くから、大地を揺るがす轟音が響き渡った。
それは、ただの雷鳴ではない。
千姫の脳裏に焼き付いた、幾度となく蘇る恐ろしい記憶の音だった。
爆発音、崩れ落ちる建物の轟音、そして、火薬の焦げ付く匂いが鼻腔を突き刺す。
空は炎に染まり、燃え盛る大坂城の天守が、まるで生き物のように絶叫を上げて崩れ落ちていく。
煙と火の粉が舞い上がり、逃げ惑う人々の悲鳴が、耳朶にこびりついて離れない。
「いや……!助けて、だれか……!」
千姫は、夢の中で必死に手を伸ばしたが、目の前で燃え落ちていく世界は、彼女の手が届くはずもない。
熱と煙にむせび、肺が焼けるような苦しさに息が詰まる。その時、瓦礫の下から、血まみれになった見慣れた顔が顔を出した。
千姫の乳母として仕えた、頼もしいあの人の顔だった。
その顔は、千姫を嘲笑うかのように歪み、冷たい声で囁いた。
「千姫様、お逃げください。お命を……!」
その声は、千姫の心に深く刺さり、彼女の存在そのものを否定するかのようだった。
「ひっ……!」
千姫は、恐怖にかられて目を覚ました。
全身から噴き出す冷や汗で寝間着は肌に貼りつき、心臓は激しく脈打っている。
息を吸い込もうとするが、喉がひりひりと痛み、呼吸がうまくできない。
千姫は、過去の影から逃れるように、布団の中で身を縮こませた。
しかし、その耳にはまだ、燃える炎の音と、人々の悲鳴が響いていた。
その千姫の異変に、隣で眠っていた忠刻が気づいた。
彼はゆっくりと体を起こし、震える千姫を優しく抱きしめた。
「どうなされたのです、千姫様。うなされておられましたな。汗をびっしょりとかいて……」
忠刻の温かい声と、力強い腕に抱きしめられ、千姫は初めて現実に戻ることができた。
しかし、悪夢の残滓はまだ千姫を離さない。千姫は震える唇で、絞り出すように言った。
「大坂が……大坂城が、燃えて……!燃え盛る炎の中で、誰もが私を守るために……!私は、ただ一人、逃げ出したのです……!皆が、私を置いていった……!私は、生きていてはいけないのかもしれない……」
千姫は、嗚咽を漏らしながら、初めて忠刻に自身の心の闇を吐露した。
これまで、誰にも話すことのできなかった、心の奥底に沈殿していた恐怖と、生き残ってしまったことへの罪悪感。
それは、千姫が姫路に来てからずっと、彼女を縛りつけていた重荷だった。
忠刻は、何も言葉を発しなかった。ただ、千姫の手をぎゅっと握りしめ、その震えを自分の体で感じ取っていた。
彼にとって、千姫が何を恐れているのか、その過去がどれほど重いものなのか、全てを理解することはできない。
しかし、その苦しみが本物であることだけは、痛いほど伝わってきた。
しばらくして、忠刻は千姫の耳元にそっと囁いた。
「お怖かったですね。私がおります。」
その一言は、千姫にとって何よりも大きな慰めとなった。
無理に過去を探ろうとしない忠刻の深い愛情と、ただ寄り添ってくれる温もりに、千姫は安らぎを感じた。
彼女は忠刻の胸に顔を埋め、彼の心臓の規則的な音を聞きながら、ゆっくりと呼吸を整えた。
千姫は、忠刻という存在が、いかに自身の心を支える大きな柱であるかを悟った。
彼は、千姫の過去を裁くことも、憐れむこともない。ただ、彼女の存在を、その苦しみごと、まるごと受け入れてくれたのだ。
忠刻は、千姫が落ち着きを取り戻したのを見て、静かに体を離すと、そばにあった手ぬぐいで千姫の額の汗を優しく拭ってくれた。その手つきは、まるで壊れ物を扱うように、細やかで丁寧だった。
千姫は、その手ぬぐいの温かさに、さらに安らぎを覚えた。
「もう、大丈夫でございます。千姫様。」
忠刻の声は、さっきよりも少しだけ穏やかだった。
千姫は、忠刻の顔を見上げた。彼の瞳には、千姫への深い慈しみと、静かな決意が宿っていた。
それは、千姫を絶対に守り抜くという、揺るぎない意志の光だった。
「忠刻様……」
千姫は、忠刻の名を呼ぶことしかできなかった。
しかし、その声には、感謝と、そして、深い愛情が込められていた。
忠刻は、千姫を再び優しく抱きしめ、二人はそのまま、再び静かな眠りについた。
千姫は、もう悪夢を見ることはなかった。
忠刻の温かい腕の中で、彼女は深い安らぎと、愛されているという確かな実感を得たからだった。




