第四十六話
夏の暑さがようやく去り、草木が色を変え始める秋の日の午後、千姫は再び城下に出た。
前回、身分を隠して町を歩き、人々の飾らない温かさに触れたことで、長年心の内に溜まっていた重苦しさがほんの少しだけ軽くなったように感じていた。
今回は、決まった目的地もなく、ただ風の向くまま、足の向くままに歩きたかった。侍女を遠目に連れて、一人の女として道を歩く足取りは、前よりもずっと軽やかだった。
街道沿いを歩いていると、古びた暖簾が風に揺れる小さな茶屋が目に留まった。
土壁は煤けているが、それがかえって温かい雰囲気を醸し出している。囲炉裏から立ち上る煙が、香ばしいお茶の匂いを運んでくる。
千姫は、まるで引き寄せられるかのように、その暖簾をくぐった。
店内は、埃ひとつない清掃が行き届いた板の間で、囲炉裏の火が赤々と燃えている。
その火を囲むように、一人の老女が座っていた。
皺の深い顔には、長年の人生が刻まれているが、その眼差しは驚くほど穏やかで、千姫の心の奥底を覗き込むかのようだった。
「いらっしゃいませ。どうぞ、おあがりなすって。こんな寂れた茶屋へ、ようおいでなすった。」
老女は千姫たちを温かく迎え入れた。
その声は、囲炉裏の火のように優しく、千姫は自然と心が解きほぐされていくのを感じた。
「少し歩き疲れて、お茶をいただきたく。」
千姫はそう答えたが、老女は千姫の立ち居振る舞いや言葉の端々に、ただならぬ品格が宿っていることに気づいていた。
しかし、老女はそれを指摘するでもなく、ただにこやかに微笑んだ。
「まあ、どうぞお楽になさって。熱いお茶と、今朝搗いたばかりのお団子がございますよ。旅のお方には、何よりの滋養になりましょう。」
老女は、千姫たちの前に素朴な茶碗と、竹串に刺さったみたらし団子を並べた。
千姫は静かに団子を一口食べ、その優しい甘さと、人の温かさがこもったような味に、思わず目を閉じた。
「おいしい……。こんなに心まで温まるお団子は、久しゅうございます。」
千姫の言葉に、老女は嬉しそうに目を細めた。
「あんたさん、言葉遣いがまことに美しい。都言葉、それも、わしには江戸やのうて、大坂の匂いがするわ。」
その一言は、千姫の心臓を鋭く貫いた。
千姫は、団子を持つ手を止め、はっと顔を上げた。
過去に触れられることを、千姫は最も恐れていた。特に、幼い頃の記憶が詰まった大坂城のことは、心の奥深くに厳重に封印していた。
この老女は、なぜ、それほどまでに深く、千姫の過去を言い当てたのだろうか。
千姫の動揺に気づいた老女は、それ以上何も言わずに、ただ静かに囲炉裏に炭をくべた。
その沈黙は、千姫にとってどれほど安堵をもたらしただろう。
詮索されず、過去を語ることを強要されない。
ただそこにいるだけで、全てを受け入れてくれる温かさ。
それは、これまでの千姫の人生にはなかった感覚だった。
千姫の瞳から、静かに涙がこぼれ落ちた。
それは、悲しみでも悔しさでも、ましてや怒りでもない。
過去の苦しみや、誰にも言えなかった心の重荷が、この老女の温かさによって溶け出したかのようだった。
老女は、千姫の涙に気づくと、何も言わずに千姫の手に、柔らかな手ぬぐいをそっと握らせた。
それは、陽の光を浴びて、ふんわりと温かかった。その温もりが、千姫の心にじんわりと染み渡っていく。
「あんたさんは、ずっと一人で抱えてこられたのですね。わしにはお見通しです。でも、もう大丈夫ですよ。ここは、あんたさんがお腹を空かせ、喉が乾き、疲れた時に、いつでも帰ってこられる場所ですから。」
千姫は、嗚咽を堪えきれず、手ぬぐいを顔に当てた。
この老女は、自分を姫君ではなく、ただ一人の人間として、深く包み込んでくれた。
そのことが、千姫にとって何よりも嬉しかった。
城に戻った千姫の心は、晴れやかな空のように澄み切っていた。
老女おつたとの出会いは、千姫がこの姫路の地で、過去を乗り越え、自分らしく生きるための、大きな一歩となったのだった。




