第三十九話
大坂夏の陣が終わり、季節が巡った。
千姫は、祖父である徳川家康が待つ江戸城へと戻った。
江戸の街は、大坂の焼け跡とは対照的に、人々の営みと活気に満ちていた。
しかし、千姫の心は未だ、あの日から一歩も進むことができずにいた。
夜になると、千姫は同じ悪夢にうなされた。
夢の中では、炎が渦を巻き、夫、秀頼が苦悶の表情を浮かべて彼女に手を伸ばす。
「千…、千…」
その声に、千姫は喉の奥から悲鳴を上げて目を覚ます。
隣で眠る侍女が心配そうに彼女の背をさするが、千姫の体は冷たい汗でびっしょりになっていた。
夢から覚めても、天井には天守閣の焼け焦げた木材の跡が幻影として浮かび上がり、風の音が秀頼の嘆き声に聞こえる。
彼女は眠ることを恐れ、ただ夜が明けるのを待つしかなかった。
昼間、千姫は徳川の姫としての役割を完璧にこなした。
美しい小袖をまとい、豪華な髪飾りをつけ、鏡の前で微笑みをつくる。
その笑顔は、まるで精巧につくられた人形のようだった。
家臣たちは、千姫が悲劇を乗り越え、立ち直ったと信じていた。
しかし、その見せかけの笑顔の裏側で、千姫の心は悲しみと自責の念によって深く蝕まれていた。
庭園を歩けば、庭石が焼け落ちた大坂城の石垣に見え、風の音が秀頼の嘆き声に聞こえる。
千姫は、江戸城という華やかな牢獄に閉じ込められた囚人のようであった。
千姫は、自分の運命を呪った。
「なぜ、私だけが生き残ってしまったのか」
心の奥底から湧き上がるその叫びは、誰にも届かない。
秀頼との婚姻は、徳川と豊臣の絆を深めるためのものであった。
しかし、その絆は脆くも崩れ去り、自分だけが生き残ったという事実は、千姫にとって重すぎる十字架となっていた。
坂崎出羽守が命がけで自分を救い出してくれたことへの感謝は確かにある。
だが、同時に、秀頼を助けることができなかった自責の念が、彼女の心を重く苛んでいた。
「私は、秀頼様を見殺しにした罪人なのだ」
千姫は、日々の生活の中で、小さな音や匂いにも敏感になっていた。
廊下を歩く足音が、大坂城で聞いた兵士たちの駆け足に重なる。
食事の場で出された魚の煮付けの匂いが、焦げ付いた肉の匂いを思い出させる。
彼女の五感は、すべて大坂の悲劇と結びついていた。
彼女は言葉を失い、静かに、まるで空気のように存在していた。
家臣たちは彼女を気遣い、静かな生活を送らせようとしたが、その配慮すら千姫には重苦しかった。
誰も、彼女が心の中でどれほどの孤独と絶望を抱えているかを知らなかった。
ただ、家康だけが、孫娘の深い悲しみを見抜いていた。
しかし、家康は何も言わなかった。
彼にとって、千姫の存在は徳川の勝利の証であり、豊臣家の完全な滅亡を意味するものであった。
千姫は、そんな祖父の視線に耐えられず、ただただ俯くことしかできなかった。
千姫の心は、まるで壊れてしまったガラス細工のようであった。
感情を表に出すこともなく、ただ静かに時を過ごす。
誰も、千姫の心の奥底にある悲しみと絶望に気づくことはなかった。
徳川の姫という重い鎖に縛られ、一人の女性としての幸せを失った千姫。
彼女の心は、大坂城の幻影に囚われ続けていた。




