第三話
駕籠の中は、外の世界の喧騒から隔絶された、小さな闇だった。
窓から差し込む光は、細く、頼りない。ゴトゴトと続く揺れが、千姫の小さな体を絶えず揺さぶる。
それはまるで、彼女の無邪気な日々が、永遠に遠ざかっていく音のようだった。
駕籠の天井には、豪華な装飾が施されていたが、千姫の心には、その美しさが届かなかった。
ただただ、この狭い空間に閉じ込められた孤独感だけが、彼女を包み込んでいた。
「お父様……お母様……」
誰もいない駕籠の中で、千姫はそっと、その名を呼んだ。
しかし、返事はない。
彼女の耳に届くのは、ただ、行列の足音と、遠くで聞こえる人々の話し声だけだった。
彼女は、母から贈られた手毬を強く握りしめた。手毬の温もりが、唯一の慰めだった。
その手毬の模様は、母の温かい手で縫われたものだった。
一つ一つの縫い目に、母の愛情が込められているように感じられた。
昼間、千姫の駕籠は、活気あふれる東海道を進んだ。
街道沿いに並ぶ宿場町は、まさに菊乃が語ってくれた通りの世界だった。
駕籠の窓を少しだけ開けると、外の音がまるで滝のように流れ込んできた。
店先からは、醤油や味噌の香ばしい匂い、そして香ばしい焼餅の甘い香りが混じり合い、千姫の鼻腔をくすぐる。
色とりどりの幟が風になびき、その下を旅人や商人たちがせわしなく行き交っていた。
千姫は、その光景を夢中で見つめた。
魚屋の威勢のいい声、子供たちの楽しそうな笑い声、そして、道端で芝居を演じる芸人たちの賑やかな拍子木。
大奥では決して耳にすることのなかった、生き生きとした音と匂い、そして人々の熱気が、千姫の五感に直接訴えかけてきた。
「ああ……」
千姫は、思わず声を漏らした。
それは、驚きと、ほんの少しの喜びが入り混じった、小さな嘆息だった。
この世界は、物語の中の出来事ではなく、今、目の前にある現実なのだ。
千姫の心は、次第に、悲しみや不安だけでなく、この未知の世界に対する好奇心で満たされていった。
街道を歩く人々の顔は、大奥にいる侍女たちのように、常に緊張しているわけではなかった。
農夫が重い荷物を背負いながら、隣の者と楽しそうに笑い合っている。
行商人が大きな声を張り上げ、商品を売り込んでいる。
茶屋の軒先では、旅人たちが足を止め、お茶をすすりながら、談笑していた。
彼らの顔は、日々の生活の苦労を背負いながらも、どこか自由で、輝いているように見えた。
千姫は、駕籠の中から、道端で遊ぶ子供たちに目を奪われた。
泥まみれになりながらも、無邪気に走り回り、笑い声を上げる。
その姿は、千姫が貝合わせや手毬遊びに興じていた、あの無邪気な日々を思い出させた。
しかし、彼女が身につけている着物や、乗っている豪華な駕籠は、その子供たちとは全く違う世界に生きていることを示していた。
彼らは自由に遊び、笑うことができる。しかし、自分は…?
彼女の視線が、行列に頭を下げてひれ伏す人々に向けられると、その好奇心は再び孤独へと変わった。
彼らは、駕籠の中にいるのが、ただの七歳の少女だとは知らない。
彼らが頭を下げるのは、徳川の威光であり、千姫個人ではないのだ。
彼女は、そのことに深く気づき、再び駕籠の窓を閉じた。
外の世界は、美しく、自由に見えたが、自分は、その一部ではない。
そう悟った瞬間、千姫の心に、再び重い寂しさがのしかかった。
夜になり、行列は宿場町に到着した。千姫が駕籠から降り立つと、昼間の喧騒はすでに遠い幻のように消え失せ、代わりに闇と静けさが辺りを支配していた。
提灯の薄暗い光が、石畳に影を落とし、まるで別の世界に迷い込んだかのようだった。
案内されたのは、この宿場で最も格式高い本陣だった。
絢爛豪華な造りは、江戸城の大奥にも劣らないほどだったが、千姫の心には、その華やかさがどこか空虚に響いた。
門をくぐると、外界の音が完全に遮断され、聞こえるのは自分の足音と、侍女たちの控えめな衣擦れの音だけ。その完璧なまでの静けさが、千姫の孤独をかえって際立たせた。
部屋に案内され、身の回りの世話をされる。
そこにいる女たちは、皆、千姫に丁寧に頭を下げ、言葉も所作も完璧だった。
しかし、彼女たちの顔には、大奥の侍女たち、とりわけ菊乃のような、心からの温かさがなかった。
それは、見知らぬ客に対する礼儀であり、そこに情はなかった。
千姫は、その無機質な優しさに、深く傷ついた。
彼女たちは千姫を「徳川の姫」として丁重に扱うが、一人の子供として、不安に怯える小さな魂として見てはくれないのだ。
食事も喉を通らず、千姫は早々に床に就いた。
しかし、瞼を閉じても眠りは訪れない。布団に潜り込み、母から贈られた手毬を抱きしめた。
手毬は冷たく、母の温もりは感じられなかったが、その重みが唯一の救いだった。
頬を伝う涙が、枕を濡らした。
それは、もう二度と会えないかもしれない両親への想い、そして、たった一人で旅を続けることへの耐え難い寂しさからくる、止めどない涙だった。
その夜、千姫は夢を見た。
夢の中には、江戸城の大奥の庭園があった。
一面に桜が咲き誇り、花びらが雪のように舞い散る。
その中で、お父様やお母様が楽しそうに笑い、その横には菊乃が優しい眼差しで千姫を見つめている。
千姫は、夢の中で思う存分に笑い、遊び、愛しい人々の温もりに包まれていた。
それは、彼女が心の奥底に大切にしまっていた、最も幸せな記憶だった。
夢から覚めると、あたりは真っ暗だった。
遠くで、夜番の武士の咳払いが聞こえる。
千姫は、自分が夢を見ていたことを悟った。
あの幸せな時間は、もう決して戻らないのだ。
現実が、夢とのあまりにも大きな落差で、千姫の心に冷たい水を浴びせかけた。
「もう、あの日々には戻れない…」
千姫は、静かに呟いた。
しかし、その声には、悲しみだけでなく、何か新しい決意のようなものが宿っていた。
それは、この運命を受け入れ、前を向いて歩んでいこうとする、七歳の少女の、小さな覚悟だった。
旅は、まだ始まったばかりだ。
千姫の運命は、大阪城へと続いていく。
その道中、彼女は、多くの出会いと、別れを経験することになるだろう。
そして、その一つ一つの経験が、彼女を、ただの姫から、天下の命運を背負う、一人の女性へと成長させていくのだ。




