第三十話
大筒の咆哮は、城内の者たちの精神を確実に蝕んでいた。
それは、ただの破壊音ではなかった。
天地を揺るがす轟音は、豊臣家の威信と、これまでの勝利への信念を、内側から少しずつ崩していくようであった。
大坂城本丸の奥、淀殿の居室にも、その脅威は容赦なく迫っていた。
砲撃のたびに床板がミシミシと鳴り、天井の木材が軋む。
壁に飾られた華やかな屏風の絵柄が、震える炎のように揺れ、灯された蝋燭の炎も不自然に揺れ動いた。
女中たちは、主君の御前であることも忘れ、小さな悲鳴を上げながら互いの着物を掴んで身を寄せ合った。
「もう……もうおやめください……」
ある女中が、床に座り込み、両手で耳を塞いで震えながら呟いた。
その声は、淀殿の胸に突き刺さった。
千姫は、淀殿の隣に座りながらも、その手は小刻みに震えていた。
彼女は、この城にいる誰もが、日増しに募る恐怖に打ちのめされていくのを肌で感じていた。
これまで、いかなる困難の前にも動じなかった淀殿も、この未知の恐怖の前には、その強固な意志を揺るがされ始めていた。
「母上様、徳川の兵は、あのような恐ろしいものを……」
千姫の声は震えていた。
彼女は、徳川の陣営にいた時、大筒の存在を遠目に見てはいたが、その威力を肌で感じるのは初めてのことであった。
「千姫、臆することはありません。城壁は厚く、あの程度の攻撃でどうにかなるものではありません」
淀殿は毅然とした口調で言ったが、その瞳の奥には、不安の影が宿っているのを千姫は見逃さなかった。
淀殿は、このままでは城内の士気が保てないことを悟っていた。
これまで味方であったはずの城壁が、今や自分たちを閉じ込める檻のように感じられた。
そんな中、千姫が日課の読経を終え、自室へ戻ろうとした時、一人の侍女が静かに声をかけてきた。
「千姫様、お疲れのところ恐縮ですが、お話ししたいことがございます」
千姫は、その侍女の顔に見覚えがあった。徳川から輿入れした際に、家康が千姫に付けてくれた者の一人だ。戦が始まってから、その侍女は口数が減り、どこか影のある表情をしていた。千姫は、侍女を誰もいない物陰に誘った。
「何か、あったの?」
千姫が尋ねると、侍女は懐から小さな文を出し、千姫に差し出した。
「千姫様、父上様からの文でございます。これを、淀殿にお渡しください」
侍女の言葉に、千姫は息をのんだ。
文をそっと開くと、そこには家康からの和議の提案が記されていた。
そして、文の末尾には、千姫への個人的なメッセージが添えられていた。
「千姫よ、汝の苦しみ、父はよく知っている。この戦を終わらせるため、徳川は和議を望んでいる。どうか、この父の言葉を信じ、淀殿に和平の道を説いてほしい」
千姫の目から、大粒の涙が溢れた。
父は、自分の苦悩を知ってくれていた。
そして、この戦を終わらせるために、自分にすべてを託してくれたのだ。
しかし、和議の使者を務めることは、夫の秀頼と、母である淀殿を裏切る行為ではないかという葛藤が、千姫の心を苛んだ。
「わたくしは……わたくしは、どうすればよいのですか……」
千姫が震える声で尋ねると、侍女は静かに言った。
「千姫様、これは豊臣様のため、そして徳川様のため、何よりも、この国の民のための道にございます。千姫様の御身は、徳川と豊臣、二つの家を繋ぐ要にございます。千姫様が、この戦を止めることができる唯一の御方なのです」
侍女の言葉は、千姫の心に光を灯した。
この戦を終わらせることこそが、自分の使命なのだ。
夫である秀頼の安泰と、この国の平和を守るため、自分は行動しなければならない。
「わたくしは、この戦を止めたい。これ以上、誰も傷ついてほしくない……」
千姫は、意を決し、淀殿の元へ向かった。
淀殿の居室の扉を開けると、そこには、蝋燭の光に照らされ、憔悴しきった表情の淀殿がいた。
その顔には、これまで決して見せることのなかった疲労と不安の影が色濃く浮かんでいた。
千姫は、そんな母の姿に胸を締め付けられた。
「母上様、家康様より、和議の申し出がございます」
千姫は、文を懐から取り出し、静かに淀殿の前に置いた。
淀殿は文を一瞥しただけで、嘲るような笑みを浮かべた。
「和議だと?あの老獪な家康が、この期に及んで……」
淀殿の声には、これまでの強気な姿勢が嘘のように消え失せ、底知れぬ疲労が滲んでいた。
大筒の轟音が、再び城を揺るがす。淀殿はびくりと肩を震わせ、無意識に千姫の手を強く握りしめた。
「母上様……」
千姫は、握られた手の震えから、母の心の弱さを感じ取った。
「母上様、家康様は、豊臣の安泰を願っておられると申しております。城は、民は、このままでは滅んでしまいます。どうか、家康様の言葉をお聞き入れください」
千姫は、涙ながらに訴えた。
淀殿は、千姫の顔を見つめた。
その瞳には、かつて見たことのないほどの必死な光が宿っていた。
「千姫、そなたはまだ分かっておらぬ。あの男の言葉は、ただの罠に過ぎぬ。豊臣を、秀頼を、この世から消し去ろうと、虎視眈々と狙っておるのだ!」
淀殿は、まるで自分に言い聞かせるかのように、強く言った。
しかし、その言葉には、確信が揺らいでいる様子がみてとれた。
「されど、母上様!この砲撃は、いつまで続くのですか?もし、秀頼様のお身に何かあれば、豊臣は……!家康様は、父上様です。父の言葉を、どうか信じてくださいませ……!」
千姫の切実な訴えは、淀殿の胸に深く突き刺さった。
彼女は、千姫の言葉の裏にある、秀頼への深い愛情と、自らの無力さを痛感した。
大筒の轟音が、彼女の最後の抵抗を打ち砕いた。淀殿は、ふっと力が抜けたように、千姫の手を離した。
「分かった……。千姫、そなたの言葉を信じよう……。家康の言葉を……信じてみよう……」
淀殿の声は、か細く、震えていた。それは、豊臣家の威信と誇りを守り続けた淀殿が、初めて見せた、心の底からの降伏であった。
和議の使者が、徳川と豊臣の間を行き来し、交渉は進められた。
そして、徳川方が提示した和議の条件は、淀殿の予想をはるかに超えるものであった。
「大坂城の外堀を埋め立てる……?」
秀頼は、徳川が提示した条件を聞き、驚きを隠せない。
豊臣方の家臣たちは、この条件が実質的な降伏を意味すると考え、強く反対した。
「それは、和議ではなく、降伏に等しい……」
大野治長や木村重成ら、豊臣の家臣たちも、この条件に強く反対した。
しかし、淀殿は、すでに決断を下していた。
「秀頼、治長、重成。徳川は、豊臣家の安泰を約束した。堀一つで、この国の平和が守られるのなら、安いものよ」
淀殿は、そう言い聞かせ、和議の条件を受け入れることを決めた。
翌日から、徳川方は外堀の埋め立てを開始したが、その勢いは止まることなく、ついに内堀まで埋め立ててしまった。
この行為が、豊臣方の激しい反発を招き、再び戦の火種となることを、まだ誰も知らなかった。




