第二話
江戸城の石垣を吹き抜ける風は、いつになく冷たかった。
それは、七つになったばかりの千姫の、新しい旅立ちを告げる嵐の予兆のようだった。
大奥の庭園を彩る木々は、すでに葉を落とし、冬枯れの姿を晒していた。
その乾いた枝が、冷たい風にカサカサと音を立てる。
まるで、千姫の心に宿る不安をそのまま映し出しているかのようだった。
その朝、千姫は真新しい豪華な着物に身を包んだ。
それは、祖父である家康が、豊臣家への敬意と、徳川の威光を示すために選んだ、最高級の絹で織られたものだった。
陽の光を浴びて、金糸銀糸が眩いばかりに輝く。
しかし、千姫にとって、その着物はただ重く、硬く感じられた。
まるで、これから背負うことになる、見えない運命の重さを象徴しているかのようだった。
その豪華絢爛な着物の下で、千姫の体は小さく震えていた。
千姫は、母であるお江と、父である秀忠の前に立った。
お江の瞳は、一晩中泣き明かしたかのように赤く腫れ、その顔には深い悲しみが刻まれていた。
千姫の小さな肩に手を置き、何も言わず、ただ震える唇を固く結んでいる。
その姿は、まるで千姫の代わりに、これから訪れるであろう苦難を一身に引き受けているかのようだった。
その手は、冷たく震え、千姫の肩を掴む指の力が、痛いほど強かった。
お江の心中には、娘を政略の道具として差し出すことへの、言いようのない後悔と、自らの無力さに対する絶望が渦巻いていた。
彼女の心は、愛しい娘の幸福と、夫の家を支える妻としての使命との間で、激しく引き裂かれていた。
お江は、かつて織田信長という天下人の血を引く娘として、自らも政略結婚の悲劇を経験していた。
だからこそ、娘がたどるであろう運命の過酷さを誰よりも理解し、その悲しみに耐え切れずにいたのだ。
父の秀忠は、いつものように感情を表に出さず、ただ静かに千姫を見つめていた。
しかし、その瞳の奥には、父としての後悔と、娘を愛する心が宿っているのを、幼い千姫は不思議と察していた。
言葉を交わすことはなかったが、その眼差しだけで、二人の間に通じ合う深い情愛があった。
彼の顔は石のように固く、唇を噛みしめていた。
その表情は、天下の将軍として決断を下しながらも、一人の父として娘を守れないことへの、深い悲痛を物語っていた。
彼は千姫に、何も語りかけることができなかった。
言葉にすれば、溢れ出る感情を抑えきれなくなると、彼は知っていたからだ。
秀忠は、父である家康の天下統一という大いなる野望を支えるために、千姫を差し出すという決断を呑み込んだ。
しかし、その決断は、彼の心に生涯消えることのない深い傷を残した。
そして、遠くからその様子を見守る祖父・家康の姿があった。
彼の顔には、誰にも見せることのない深い孤独が浮かんでいた。
天下泰平のため、愛する孫娘を犠牲にするという決断は、彼自身の心にも深い傷を残していた。
この血の通わぬ政略こそが、徳川の世を確固たるものにすると信じながらも、その代償の大きさに、彼は静かに耐えていた。
千姫の小さな姿を見つめる彼の瞳には、天下人としての冷徹さと、一人の祖父としての哀しみが複雑に混じり合っていた。
家康は、豊臣との間に横たわる深い溝を埋めるためには、血の繋がりが唯一の道だと信じていた。
千姫の婚姻は、徳川と豊臣の間に築かれる、最も強固な絆となるはずだった。
しかし、その絆が、千姫の幸せを犠牲にした上で成り立つものであることを、彼は誰よりも深く理解していた。
やがて、旅立ちの時間が来た。大奥の侍女たちが、静かに行列を組んでいく。
その中に、千姫が最も心を許した菊乃の姿はなかった。千姫は、この旅に菊乃が付き従うと思っていた。
しかし、彼女は江戸城に残るのだと告げられた。
「菊乃は…?」
千姫が不安げに尋ねると、母のお江はただ静かに首を振った。
千姫は、菊乃の温かい膝と、優しい物語がもう聞けないのだと悟った。
心の支えが一つ、音もなく崩れ落ちるのを感じた。
千姫を乗せた駕籠が、ゆっくりと江戸城の大手門をくぐっていく。
門の石畳が、ゴトゴトと重い音を立てる。
それは、彼女の無邪気な日々が終わったことを告げる、哀しい足音のようだった。
駕籠の窓から、千姫は外の世界を初めて間近で見た。
巨大な城の石垣、高い塀、そして厳重な警備。まるで、自分という存在が、決して外へ出ることのないように、厳重に守られていたことを知った。
しかし、今、彼女は、その厳重な守りを自ら出ていくのだ。
千姫は、遠ざかる母と父の姿を必死に目で追った。彼らの悲しげな姿が、彼女の心に焼き付いた。
そして、見慣れた江戸城の景色が、少しずつ遠くなっていく。
それは、彼女が愛した世界が、もう二度と戻らない場所になったことを意味していた。
千姫の心の中では、戸惑いと悲しみが嵐のように渦巻いていた。
ついこの間まで、外の世界は希望に満ちた夢だった。
しかし、今は、二度と会えないかもしれない人たちから引き離される、冷酷な現実として目の前に立ちはだかっていた。
なぜ自分だけが、このような運命を背負わなければならないのか。
幼い心に浮かぶ疑問は、誰に尋ねても答えが見つからない。
駕籠の中で、千姫はそっと、母から贈られた手毬を握りしめた。
その温もりが、彼女の小さな心を慰める唯一の拠り所だった。
まるで、母の温かい手が、遠く離れた場所からでも自分を抱きしめてくれているかのようだった。
遠ざかる城の姿が、やがて地平線の彼方に消えていく。
その時、千姫の頬を、一筋の冷たい涙が伝った。
それは、この日、初めて流した、自分自身の意志とは無関係な、悲しみの涙だった。
この涙が、彼女のこれから歩むであろう、長く険しい「路」の始まりを告げていた。




