第二十三話
千姫からの密書を懐に収めた家康の表情は、もはや一切の感情をうかがわせなかった。
その目は、天下泰平という大義のために、私的な情を捨て去る覚悟を決めた、冷徹な武将のそれに変わっていた。
家康は静かに立ち上がり、重臣である本多正純と板倉勝重を招集した。
二人が入室すると、家康は障子を閉め、外部に一切の声が漏れぬように配慮した。
「正純、勝重。千姫からの文に、淀殿の狂気が記されておる。もはや、豊臣との和睦は夢物語と心得よ」
家康は、密書の要点を簡潔に伝えた。
淀殿が徳川家に対する猜疑心から、鐘の銘文を呪詛と見なすよう家康を煽ったこと、そして秀頼がその暴走を止めることができずにいること。
その一言一言に、家康の深い悲しみと、それを上回る冷徹な決意がにじんでいた。
「…誠に残念なことでございます。しかし、殿のご決断、我ら一同、命をかけてお支えいたします」
正純は、家康の表情からすでに大阪攻めが不可避であることを察していた。
彼は、家康の真意を読み取り、その決断を即座に受け入れる忠実な片腕だった。幼少より家康に仕え、その深い信任を得てきた正純にとって、主君の意志は絶対だった。
彼は、感情を交えることなく、ただひたすらに家康の命を完遂することに徹した。
一方、勝重は、家康の言葉に微かな違和感を覚えた。
「殿、和睦の道を完全に閉ざすには、まだ早計ではございませんか。今一度、交渉の機会を…」
勝重は、家康の命に従う正純とは異なり、あくまで冷静な視点から諫言を試みた。
彼は、京都所司代として、朝廷や公家との関係を円滑に保ち、京の治安を守る役割を担っていた。
むやみに戦を起こすことの弊害を誰よりも理解しており、常に客観的な視点から物事を判断しようとした。
勝重の慎重な言動は、家康の暴走を食い止める「ブレーキ」としての役割を果たしていた。
「否、勝重。もはや時はない。淀殿の暴走は、すでに天下に混乱をもたらす種を蒔いておる。天下泰平という大義のためには、この小さな火種を、完全に消し去る必要がある」
家康は、正純の忠誠心と、勝重の慎重さを、どちらも理解していた。
だからこそ、彼は二人に、それぞれの役割を明確に指示した。
正純には、大名たちに大阪出陣を命じる書状を作成し、正当性を天下に広めるための策を練るよう命じた。
そして勝重には、朝廷との関係を保ち、この戦が徳川の私闘ではなく、天下の安寧のための戦であることを公家たちに説得するよう命じた。
家康は、方広寺の鐘の銘文に話を進めた。
「方広寺の鐘の銘文、『国家安康』と『君臣豊楽』。この言葉を、淀殿は徳川への呪詛と吹聴しておる。この銘文は、秀吉の七回忌にあたり、秀頼が再建を命じたもの。本来は、天下泰平と豊臣家の安寧を願う言葉に過ぎん」
家康は静かに説明した。
鐘の銘文は、学者である清韓を招き、秀頼の正室である千姫や家康の健康と繁栄を祈る意味合いで作成された。
家康自身も、当初はさほど気に留めていなかった。
しかし、豊臣家との対立を深めたい家康の近臣たちは、この銘文に不穏な意味があると吹聴し始めた。
「正純、お主、この銘文をどう読むか」
家康は正純に問いかけた。正純は、家康の意図を汲み取り、答えた。
「『国家安康』は、『家康』の名を分断し、徳川の安寧を願わないことを示唆しております。『君臣豊楽』は、『君』を豊臣家とし、『豊臣と家臣』が豊かに楽しむ、つまり徳川家は関係ない、と読み取れます。これは明らかに、殿を呪詛する言葉にございます」
家康は、正純の解釈に満足げに頷いた。
「さよう。淀殿は、この解釈を天下に広めておる。このまま放置すれば、豊臣と徳川の対立は、天下の公認となり、いずれは戦が始まる」
家康は、この事件を豊臣討伐の口実として利用することを決意した。
この計画の背後には、千姫の安全確保という、個人的な思惑も隠されていた。
「戦が始まれば、大阪城は火の海となろう。千姫は、その中で、いずれ危険に晒される。儂は、千姫を豊臣から引き離し、自らの保護下に置くための手段として、この戦を利用する」
家康は、二人に千姫を救い出すための密命を下した。
それは、大阪城攻めと同時に進行する、極秘裏の作戦だった。
天下泰平という大義と、孫娘を救うという個人的な情。二つの目的を同時に達成しようとする、
家康の非情な、しかし完璧な策略が動き出した瞬間だった。




