第二十話
家康が静観を決め込んだ頃、大阪城では、淀殿の徳川に対する警戒心が頂点に達していた。
菊乃が城を去った一件は、淀殿に大きな疑念を抱かせ、彼女の心をさらに固く閉ざさせていた。
「徳川は、我ら豊臣を、内側から蝕もうとしておる。千姫も、秀頼も、その企みに気づいておらぬ…」
淀殿は、大野治長や木村重成といった強硬派の家臣たちを呼び出し、厳しく命じた。
「直ちに、大阪城の堀を深くせよ。そして、城内にいる徳川の血を引く者、その全てを監視せよ。…特に、千姫殿の動向には、目を光らせておくのだ」
大野治長が、淀殿の前にひざまずき、進言した。
「淀殿様。千姫様は、真に秀頼様を想っておられます。どうか、もう少しご冷静に…」
その言葉を遮るように、木村重成が声を荒げた。
「治長殿!何を言うか!千姫様が、どれほど秀頼様を想われていようと、その身には徳川の血が流れておりますぞ!あの家康の孫なのですぞ!いつ、裏切るやもしれぬ!」
「不憫などと申しておられる場合か!豊臣の命運がかかっておるのだ!家康は、豊臣を滅ぼすために、千姫様をこの城に送り込んだのだ!我らは、淀殿様の命に従うのみ!」
淀殿は、激昂する家臣たちを見つめ、静かに、しかし、有無を言わせぬ口調で言った。
「重成の言う通りよ。もはや、人の情など、捨てねばならぬ。徳川の奸計に、我らが落ちるわけにはいかぬ。…千姫の監視を怠るな。そして、徳川の者、一人たりとも、城内に入れるな」
淀殿の言葉には、もはや理性はなかった。
徳川に対する深い憎悪と、秀頼を守りたいという純粋な母の愛が、彼女を暴走させていた。
家臣たちは、淀殿の狂気にも似た執念に、ただただ、ひれ伏すしかなかった。
その日の夜、千姫は秀頼の文を手に、自室で苦悩していた。
「秀頼様は、私のことを心から信じ、守ってくださっている。しかし…この文を、祖父に届けたら…」
千姫は、淀殿の言葉が頭をよぎり、身震いした。
淀殿は、家康が秀頼の文を、豊臣を滅ぼす口実にすると言っていた。
千姫は、どちらの言葉が真実か、わからなくなっていた。
愛する夫、秀頼の温かい言葉。
そして、祖父、家康の冷徹な思惑。二つの真実が、千姫の心を激しく揺さぶっていた。
「私は、どちらを信じれば…」
千姫の心は、激しく揺れ動いた。
秀頼の純粋な愛を信じるべきか、それとも、淀殿の冷徹な言葉を信じるべきか。
千姫は、秀頼の文を、何度も握りしめては開き、握りしめては開いた。
その度に、彼女の心は、二つに引き裂かれるような痛みを感じていた。
文に書かれた秀頼の筆跡が、千姫の心に、深い愛を刻みつけ、同時に、淀殿の冷たい言葉が、千姫の心を、凍りつかせていた。
翌日、千姫は、秀頼と庭園で会った。
秀頼は、千姫が憔悴していることに気づき、心配そうに声をかけた。
「千姫、疲れておるのか。…菊乃のことが、まだ心に…」
「…はい」
千姫は、秀頼の優しい言葉に、涙がこぼれそうになるのを必死に堪えた。
秀頼は、千姫の小さな手をそっと取り、両手で包み込んだ。
「どうか、ご無理をなされぬよう。千姫が、つらい思いをしているのを見るのは、私もつらい。もし、何か私に話せないことがあれば、この庭の池にでも話してみると良い。水は、人の心を清めてくれるからな」
秀頼は、そう言って、千姫の頭を優しく撫でた。
千姫は、秀頼の言葉と、その温かい手に、深い愛を感じた。同時に、この優しい秀頼が、淀殿の暴走と、徳川の冷徹な思惑の狭間で、いかに無力な存在であるかを悟った。
「私が、秀頼様を守らなければならない…」
千姫は、そう心に決意した。
そして、その夜、千姫は、秀頼の文を燃やした。
秀頼の純粋な思いが、政治の渦に利用されることを、千姫は、何よりも恐れたのだ。
千姫が秀頼からの文を燃やした翌朝、淀殿は千姫の部屋を訪れ、その行動を厳しく問い詰めた。
淀殿の鋭い視線に、千姫は息をのんだ。
淀殿は、千姫が文を燃やしたことをすでに知っていたのだ。千姫の行動はすべて、淀殿の監視下にあった。
「…秀頼様の、純粋な思いが、政治の渦に利用されるのを恐れたゆえ…」
千姫は、震える声で答えた。淀殿は、その答えに冷たい笑みを浮かべた。
「ほう。純粋な思いとな?そなたは、徳川の血を引く。その身は、徳川の間者ではないと、どうして申せよう。文を燃やしたのは、証拠隠滅ではないか。」
「いいえ!私は、秀頼様を…!」
「千、もうよい。そなたの言葉は、もはや信じられぬ。この城では、そなたの行動、一挙手一投足、すべてを監視させてもらう」
淀殿の言葉は、千姫の心を深く傷つけた。
しかし、千姫は反論できなかった。淀殿の疑心は、すでに限界に達していた。
千姫は、淀殿と秀頼の板挟みとなり、深い葛藤を抱えることになった。
「私は、どうすれば秀頼様を守れるのだろう…」
千姫は、自室に戻り、一人、深く考え込んだ。淀殿に真実を話せば、秀頼と淀殿の関係に亀裂を生じさせるだろう。
しかし、真実を話さなければ、千姫自身が徳川の間者と見なされ、秀頼から遠ざけられてしまうかもしれない。
千姫は、苦悩の末、淀殿に真実を話すことを諦めた。
秀頼を守るためには、自分が疑われることを受け入れるしかない。
千姫は、淀殿の監視を受け入れ、秀頼から距離を置くことにした。
秀頼を政治の渦から遠ざけるために、千姫は自らが盾になることを決意した。
しかし、秀頼は、千姫が自分から遠ざかることに、深い悲しみを覚えた。
「千姫…なぜ、私を避けるのだ…?」
秀頼は、千姫に何度も問いかけた。
千姫は、秀頼の優しい問いかけに、何も答えることができなかった。
真実を話すことができない苦しみが、千姫の心を締め付けた。
「ごめんなさい、秀頼様…」
千姫は、そう言って、秀頼の前から去った。
秀頼は、その場に立ち尽くし、ただただ、千姫の背中を見つめるしかなかった。
淀殿は、千姫の行動を見て、さらに疑心を深めていった。
「やはり…千は、何かを隠しておる。秀頼を欺き、徳川の企みに加担しておるに違いない」
淀殿の疑心は、もはや狂気と化していた。
淀殿は、千姫が徳川に裏切ることを恐れ、千姫の部屋に、密かに忍び込ませた侍女を配置した。
千姫は、日々、淀殿の監視と秀頼の悲しい視線に耐えながら、自らの無力さに打ちひしがれていた。
しかし、千姫は、秀頼を守るという固い決意を胸に、耐え忍んだ。千姫の心は、二つの家の思惑の狭間で、引き裂かれそうになりながらも、決して折れることはなかった。
愛する夫、秀頼と、淀殿の間に挟まれ、千姫の葛藤は、さらに深いものとなっていった。
二人は今、血と涙に満ちた、過酷な運命へと向かっていた。




