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姫の路  作者: 枕川うたた


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第十九話

慶長十九年、江戸城、本丸。

晩秋の冷たい風が、広大な庭園の木々を揺らし、カサカサと乾いた音を立てていた。

その音を聞きながら、徳川家康は、老臣・本多正信から、大阪城の動静について、静かに報告を受けていた。


「…淀殿様の、徳川への警戒心は、日に日に強まっております。千姫様の侍女が姿を消した一件を、徳川の間者によるものと喧伝し、秀頼様と千姫様の仲を引き裂こうと画策しておるとの由…」


正信の報告は、淀殿の周到な策略を物語っていた。

家康は、正信の言葉を遮ることなく、ただ、庭園の木々を静かに眺めていた。

その瞳は、深遠な湖のようで、その奥底に何が隠されているのか、正信にも読み取ることができなかった。

家康は、ただ黙って、老いた鷹が獲物をじっと見据えるように、遠く大阪の空を見つめているようだった。


「…秀頼様と千姫様は、真に深く愛し合っておられるご様子。しかし、淀殿様の言葉に惑わされた豊臣の家臣たちは、千姫様を徳川の間者として疑い始めております。…千姫様は、この度のご心労でおやつれになり、夜な夜な涙しておられるとの報もございます。…このまま、静観なされますか」


正信は、千姫を案じ、家康の決断を待った。

正信は、家康の孫娘を思う気持ちを信じていた。

だが、家康は、しばしの沈黙の後、ゆっくりと、しかし重々しく口を開いた。


「…正信よ、天下の安寧と、一人の姫の幸せ、どちらが重いと思う」


家康の問いは、正信の心を深く抉った。

天下人として、あるいは老いた祖父として、家康がどのような決断を下すのか、正信は息をのんで見守った。


「…天下の安寧にございます」


正信は、迷いなく答えた。

それが、家康が最も重んじることだと、長年仕えた正信は、誰よりも深く理解していた。

しかし、その言葉を口にしながらも、千姫を思うと、正信の心は痛んだ。


「…そうよ。天下の安寧こそ、わしが太閤殿下より託された、この世の務めよ。…大阪城の豊臣は、一枚岩ではない。淀殿の徳川への不信、そして、秀頼の和睦への願い…この二つが、豊臣を内側から蝕む。…今、徳川が下手に介入すれば、淀殿は、この不信をさらに煽り、豊臣を一つにまとめ上げてしまうだろう。…それは、天下に再び戦乱をもたらすことになりかねぬ。故に、今は、静観の時ぞ」


家康の言葉は、冷徹なまでに理路整然としていた。

正信は、家康が、千姫の心労を知りながらも、豊臣の内部分裂を待つことを選んだことを悟った。

それは、天下の泰平という大いなる目的のためならば、愛する孫娘の幸せさえも犠牲にするという、家康の冷酷な決断だった。

家康の表情は変わらなかったが、正信には、その奥底に隠された、深い悲しみと葛藤が見えるようだった。

彼は、自らが築き上げたこの世を、血のつながりのある家族に託すことができず、政略という冷たい計算でしか、世を治める術を持たないことを、誰よりも深く自覚していた。


「…しかし、淀殿様は、このままでは、さらに大胆な策を講じて、秀頼様と千姫様を完全に引き離そうとするかもしれません。…その時も、ただ、見ているだけでございますか」


正信は、千姫の身を案じ、さらに踏み込んで尋ねた。

家康は、正信の問いに、再び目を開け、その瞳には、かつて関ヶ原の戦場で響いたそれとは違う、しかし、冷たい光が宿っていた。


「…その時は、その時よ。…千姫は、徳川の姫として、豊臣の心を見定めよ。そして、自ら、この乱世を生き抜く術を身につけよ。…それが、あの子に与えられた、宿命なのだ。…徳川と豊臣、二つの家の間に流れる、深い川の流れを、千姫は自らの力で渡らねばならぬ。…この試練を乗り越えれば、あの子は、ただの姫ではない、天下の命運を左右する、真の「姫」となろう」


家康は、千姫の苦悩を理解しながらも、彼女に、この巨大な運命の渦の中で、自らの力で生き抜くことを強いたのだ。

それは、家康が、千姫という孫娘を、天下を治めるための、最後の駒として見ていたことを示していた。

だが、それだけではなかった。

家康は、千姫に、徳川の血に流れる、不屈の精神を託していた。

彼女が、淀殿の策略を乗り越え、秀頼との愛を貫き、徳川と豊臣の真の架け橋となることを、静かに期待していたのだ。

正信は、家康の深い孤独と、冷徹なまでの決意、そして、その奥に隠されたかすかな希望を理解し、それ以上、何も言えなかった。

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