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姫の路  作者: 枕川うたた


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第一話

江戸城は、関ヶ原の戦いに勝利し、天下をその掌中に収めつつある徳川の威光を映すかのように、巨大な威容を誇っていた。


しかし、七つになったばかりの千姫にとって、その大奥は、金色の光に満ちた鳥籠だった。

外の世界は、分厚い石垣と堀の向こうに広がる、遠いおとぎ話。


彼女の世界は、金糸銀糸で織られた着物と、四季の移ろいを閉じ込めた庭園、そして数多の侍女たちに囲まれていた。

この小さな世界がすべてだと信じて疑わなかった。


千姫は、雅な遊びを好んだ。

特に貝合わせは、彼女のお気に入りだった。

美しい蒔絵が施された貝殻を一つ一つ手に取り、その艶やかな輝きと、二つとない模様を丹念に見比べた。


その指先が触れるたび、貝殻からは微かな海の香りがした。

ぴたりと対になるものを見つけたときの、心臓が弾むような喜び。

その無邪気な笑い声に侍女たちがつられて笑う。


彼女はまだ、「姫」としての作法や振る舞いよりも、目の前の美しいもの、楽しいことに夢中な、ただの一人の子どもだった。


侍女の菊乃は、千姫が最も心を許した相手だった。


年の離れた姉のように慕う千姫は、菊乃の膝に頭を乗せ、外の世界の話をせがんだ。

菊乃が語る、活気あふれる市場の喧騒、色とりどりの着物を着た町人の様子、そして、大奥では決して見ることのできない、空いっぱいに広がる星のきらめき。


それは、千姫にとって、物語の登場人物になったかのようにわくわくする夢の世界だった。


「姫様には、いつか外の世界のすべてを見ていただきたい」


その言葉に、千姫は瞳を輝かせた。


「ねえ、菊乃。外の世界って、本当にそんなに楽しいの? 市場には、お姫様には見られないものがたくさんあるって本当?」


「はい。このお城の中だけが、この世のすべてではございません」


千姫は無邪気に頷いた。

いつか外に出れば、どんなに楽しいことが待っているだろう。


彼女の頭の中には、まだ、徳川と豊臣の対立も、天下統一という言葉もなかった。

ただ、いつか見知らぬ世界へ出ていけることへの、漠然とした期待だけがあった。


しかし、その穏やかな日々に、いつからか影が差し始めた。


母、お江の瞳の奥に宿る、決して言葉にはされない深い悲しみ。

祖父、家康の表情に浮かぶ、時折の険しい面持ち。

父である秀忠もまた、千姫を遠くから見つめ、そのたびに眉間に深い皺を刻んだ。


千姫は、その理由を問う勇気もなく、ただ、大人たちの間に流れる不穏な空気を敏感に感じ取っていた。


「ねえ、菊乃……どうして、みんな私を見るとき、悲しい顔をするの?」


千姫の問いに、菊乃は何も答えられなかった。

ただ、その手で千姫の小さな手を握り返す力が強くなった。


その無言の答えこそが、千姫の無邪気な日々が終わりを告げようとしていることを示唆していた。

彼女がその「外の世界」へと連れ出される日が、すぐそこまで迫っていることを、まだ誰も千姫に告げてはいなかった。


その日の午後、千姫は祖父・家康の前に呼び出された。


部屋はいつもと変わらぬ静けさに満ちていたが、張り詰めた空気が千姫の小さな肩に重くのしかかる。

畳に膝をつく父の秀忠が、千姫の隣に静かに控えている。


彼の顔は、普段の冷静沈着な表情から、父としての苦悩がにじみ出ていた。

千姫を慈しむ秀忠の眼差しは、家康には見向きもせず、ただ娘の小さな背中を見つめている。

家康は、普段のように千姫を膝に乗せることも、優しい眼差しを向けることもなかった。

彼の瞳は、ただ、遠くを見据え、その手は深々と組まれていた。

それは、天下を統べる者が、最も愛するものを犠牲にする決断を下した後の、深い孤独の証だった。


やがて、その沈黙を破ったのは、家康の重々しい声だった。

その声は、かつて関ヶ原の戦場で響いたそれとは違い、かすかに震えているようにも聞こえた。


「千、そなたは、徳川の血を引く姫じゃ。されど、そなたの真の役目は、徳川の世を盤石とすることにある。豊臣の元へ嫁ぎ、秀頼殿の妻となるのじゃ」


その言葉の意味を、千姫は完全に理解することができなかった。

嫁ぐ?

妻となる? それは、菊乃が話してくれた、知らない世界へ行くことだろうか。


しかし、なぜ、みんなが悲しい顔でいるのだろう。


「それは、皆が悲しんでいることなのですか?」


千姫が純粋な疑問を口にすると、家康は一瞬、眉をひそめた。

しかしすぐに元の無表情に戻り、静かに答えた。


「これは、徳川と豊臣の絆を結ぶための、姫としての使命じゃ。そなたの幸せのためではない。徳川の世のため、そして天下の安寧のためじゃ」


その言葉は、千姫の心に突き刺さった。

それは、この日を境に、彼女がただの一人の子どもではなく、歴史の駒として生きることを宣告する、冷酷な言葉だった。


父・秀忠は、その宣告をただ静かに受け入れることしかできず、その苦悩を胸の内にしまい込んだ。


その夜、千姫は自室に戻り、母のお江に抱きしめられた。

母の腕は、いつもよりずっと強く、千姫の小さな体を震わせた。


「お母様…」


千姫が声を震わせると、お江は言葉を返す代わりに、ただ涙を流した。


お江の涙は、千姫が生まれてから今日まで、彼女の幸福を願い続けてきた母の、最後の抵抗だった。

政略の渦に巻き込まれ、娘を遠い地へ差し出さなければならない運命を、彼女は誰よりも深く嘆いていた。


秀忠は、その様子を遠くから見つめていた。

彼は、天下の安寧と、娘の幸せという、二つの重荷を背負っていた。


父として、この幼い娘を愛し、守りたいと願う心。

そして、将軍として、徳川の世を盤石にしなければならない使命。


その板挟みに、彼の心は引き裂かれそうだった。

しかし、彼は家康の決定を覆すことはできない。

ただ、娘の背中を、悲痛な眼差しで見つめることしかできなかった。


その日、千姫の無邪気な日々は終わりを告げた。

それは、徳川の威信を背負い、天下の命運を左右する、壮絶な宿命の始まりだった。

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