第十八話
菊乃が大阪城から姿を消して、数日が経った。
千姫は、菊乃が突然いなくなったことを知らされ、深い悲しみに包まれていた。
淀殿の侍女たちが、菊乃が江戸に戻ったと告げたが、千姫は信じられなかった。
「どうして…菊乃は、何も言わずに…」
千姫は、一人、自室で悲しみに暮れていた。
菊乃は、千姫にとって、ただの侍女ではなく、姉であり、心の支えだった。
江戸から大阪への旅路を共にし、千姫の不安な心を和らげてくれた。
秀頼との関係に戸惑っていた千姫に、優しく言葉をかけてくれた。
その菊乃が、何の言葉もなく、自分を置いて去ったことが、千姫には耐えられなかった。
「…菊乃は、私に、何か隠していることがある」
千姫は、そう感じていた。
菊乃が、自分を置いて江戸に帰るはずがない。
何か、菊乃の身に、そして、淀殿の思惑が絡んでいるに違いない。
千姫は、淀殿の侍女たちに、何度も菊乃の居所を尋ねたが、皆、口を閉ざすばかりだった。
千姫は、秀頼に、このことを話すべきか悩んだ。
秀頼に話せば、彼は必ず、菊乃の行方を調べてくれるだろう。
しかし、それが、淀殿の思惑に火をつけ、秀頼を危険に晒すことになるのではないか。
千姫の心は、秀頼への想いと、菊乃への深い情愛の間で、激しく揺れ動いた。
一方、淀殿は、菊乃の逃亡を好機と捉え、密かに徳川との対立を煽り始めていた。
淀殿は、千姫が菊乃を失い、深い悲しみに暮れていることを知っていた。
「千姫殿は、徳川の姫としての務めを果たさぬ。豊臣に心を許し、秀頼殿の心を惑わせた。その証拠に、あの侍女は、徳川の命を受けて、千姫殿を連れ戻そうとしたのだ」
淀殿は、秀頼の家臣たちを招集し、静かに語りかけた。
「…徳川の姫は、我らに懐き、秀頼を惑わせている。これは、徳川が仕掛けた、巧妙な策に違いない」
家臣たちは、淀殿の言葉に、一様に顔色を変えた。
彼らは、淀殿が徳川を深く警戒していることを知っていたが、千姫がここまで疑われているとは思いもしなかった。
「淀殿様…しかし、千姫様は、真に秀頼様を愛しておられるように見えます」
一人の老臣が、恐る恐る口を開いた。
彼の言葉に、淀殿の瞳は、さらに鋭い光を宿した。
「そなたは、徳川の情けに惑わされたか。…良いか。徳川は、表向きは和睦を唱えるが、その心は、常に我ら豊臣を滅ぼす機を伺っている。千姫の寵愛が深まるほど、秀頼は徳川の意のままに動かされよう。そうなれば、太閤様が築かれたこの豊臣の世は、徳川の手に落ちるのだ」
淀殿の声は、静かだったが、その言葉には、家臣たちを震え上がらせるほどの凄みがあった。
彼らは、淀殿の言葉に反論する術を知らなかった。
淀殿は、この数年間の間に、秀頼の心を千姫から引き離し、豊臣の威信をかけて徳川と対峙させようと、様々な画策をしてきた。
しかし、千姫と秀頼の絆は、淀殿の想像以上に強く、彼女の思惑はことごとく阻まれてきたのだ。
「…あの侍女の逃亡は、徳川の、我らに対する警戒心の現れに他ならぬ。徳川は、千姫が、我ら豊臣に心を許したことを知ったのだ。故に、あの侍女を遣わし、千姫を連れ戻そうとしたが、果たせなかった。…今こそ、千姫と秀頼の間の絆を断ち切る好機。そして、豊臣の天下への道を開く、絶好の機会なのだ」
淀殿は、そう言って、家臣たちに、千姫を徳川の間者であるかのように見せかけるための、様々な策略を命じた。
家臣たちは、淀殿の恐ろしいほどの執念に、ただただ、ひれ伏すしかなかった。
秀頼は、そんな城内の不穏な空気を敏感に感じ取っていた。
特に、千姫を遠ざけようとする家臣たちの視線に、彼は強い苛立ちを覚えていた。
しかし、千姫が菊乃を失い、悲しみに暮れていることを知っていた彼は、千姫を信じ、彼女を支えようとした。
ある日の午後、秀頼は、庭園で一人佇む千姫を見つけ、静かに声をかけた。
「千姫…」
秀頼の声に、千姫は振り返った。
その瞳は赤く、涙をこらえているようだった。
「秀頼様…」
千姫は、秀頼の顔を見ると、こらえていた涙が溢れ出した。
秀頼は、何も言わずに千姫を抱き寄せた。千姫は、その胸に顔を埋め、声をあげて泣いた。
「…菊乃は、私を嫌いになってしまったのでしょうか…。なぜ、何も言わずに…」
千姫の震える声に、秀頼は静かに首を振った。
「千姫、そなたの侍女が、そなたを嫌うはずがない。…この大阪城の誰もが、そなたのことを愛している。私も、そなたのことが好きだ」
秀頼の言葉に、千姫は顔を上げた。
彼の瞳は、千姫の心を見透かすかのように、まっすぐだった。
「…しかし、皆の視線が、私に冷たく感じられます。…私が、徳川の姫だからでしょうか」
千姫の問いに、秀頼は一瞬、言葉を詰まらせた。
彼は、淀殿や家臣たちの思惑を知っていた。
彼らが、千姫を徳川の間者だと疑い、自分から遠ざけようとしていることも。
しかし、彼は、千姫に、その真実を話すことができなかった。
「それは、違う。…皆は、そなたが、徳川と豊臣、二つの家の架け橋となることを、期待しているのだ。故に、そなたに、大きな期待を寄せているだけのこと。…私は、そなたを信じている。徳川の姫としてではなく、ただの千姫として」
秀頼は、千姫の手を握り、力強く言った。
その言葉は、淀殿や家臣たちの思惑とは全く違う、秀頼自身の心からの言葉だった。
千姫は、秀頼の言葉に、深い安堵を感じた。秀頼は、自分を信じ、この巨大な運命の中で、必死に千姫を守ろうとしてくれている。
その優しさが、千姫の心を温かく包み込んだ。
しかし、その一方で、千姫は、秀頼が淀殿の策略に巻き込まれていくのではないかと、内心、不安でたまらなかった。
秀頼は、豊臣の当主として、徳川との融和を望む一方で、母や家臣たちの期待にも応えなければならない。
その板挟みで、秀頼は、日々、心をすり減らしていた。
千姫は、秀頼の孤独を誰よりも深く理解していた。
しかし、菊乃を失った今、千姫は、自分の心の支えを失い、秀頼を支えることができなくなっていた。
「私は、秀頼様を守りたい。でも、どうすれば…」
千姫は、夜な夜な、一人、そう自問自答を繰り返した。
淀殿の言葉が、千姫の心を深くえぐった。
淀殿は、秀頼を守るために、徳川と戦おうとしている。
そして、千姫自身が、その徳川の象徴なのだ。
千姫が秀頼に近づけば近づくほど、秀頼は淀殿や家臣たちの反発を招き、追い詰められていく。
千姫は、自分が秀頼を愛すれば愛するほど、秀頼を苦しめることになるのではないかと、深い苦悩に陥った。
それは、愛すれば愛するほど、相手を傷つけるという、悲しい矛盾だった。
千姫は、この巨大な城の中で、自分の愛が、秀頼にとって毒となるのではないかという、恐ろしい予感に怯えていた。
二人は今、新たな試練を迎えようとしていた。
愛という名の毒を背負い、千姫は、この先、どう進んでいくのだろうか。




