第十六話
夜が更け、大阪城は深い静寂に包まれていた。
千姫の部屋の陰に身を潜めたまま、菊乃は息をするのも忘れ、秀頼と千姫の痛ましいやり取りをすべて聞いていた。
千姫の悲痛な声、そして、その声に答えることのない秀頼の冷たい言葉。
そのすべてが、菊乃の胸に鋭い刃となって突き刺さった。
「…私が、お姫様を苦しめてしまった」
菊乃は、静かに涙を流した。千姫がどれほど秀頼を信じ、この地で幸せを築こうと願っていたか、菊乃は誰よりもよく知っていた。
千姫の笑顔を再び見たい一心で、ただひたすらに大阪を目指した。
しかし、結果は、千姫のささやかな幸せを壊し、彼女を深い悲しみの淵に突き落とすことになった。
菊乃は、自分の軽率な行動が、千姫と秀頼の間に生まれたばかりの脆い絆を、いかに引き裂いてしまったかを知り、自責の念に駆られた。
「お姫様は、私を故郷の温もりだと言ってくださった。しかし、私は…ただの災いしかもたらさなかった」
菊乃は、袖で静かに涙を拭った。
なぜ、もっと慎重になれなかったのか。
なぜ、千姫の状況を深く考えもせず、ただ会いたいという一心だけで、無謀な行動に出てしまったのか。
後悔の念が、重い鎖のように菊乃の心を締め付けた。
千姫をこれ以上苦しめないために、菊乃は自らの過ちを償うべく、何とかして千姫と秀頼の関係を修復しようと試みる。
菊乃は、千姫が秀頼に宛てた文を、彼女の元へ届けることを思い立った。
文には、千姫の心からの想いが綴られており、これを読めば秀頼の心も動くだろうと信じたのだ。菊乃は、夜陰に紛れて千姫の部屋に忍び込み、机の上に置かれた文を手に取った。
千姫は眠っていたが、その顔には涙の跡が残っていた。その姿に、菊乃はさらに強く決意した。
「私が、この文を…お姫様の気持ちを、秀頼様にお届けします」
菊乃は、文を懐にしまい、秀頼の部屋へと向かった。夜の大阪城は静まり返っており、人の気配はほとんどない。
菊乃は、壁に沿って身を隠しながら、慎重に進んだ。
だが、その行動は、城内を警備する淀殿の侍女たちに気づかれてしまった。
「待て!何者だ!」
背後から複数の声が響き、菊乃は驚いて立ち止まった。
振り返ると、松明を持った侍女たちが、菊乃を囲んでいた。彼女たちの顔には、冷たい警戒の色が浮かんでいる。
その中心には、淀殿の側近らしき、厳格な表情の女が立っていた。
「見慣れぬ顔…まさか、徳川の者か」
女は、菊乃の懐を指差した。
「その懐にあるものは何だ? 見せてみよ!」
菊乃は、文を守るように懐に手を当て、後ずさりした。
その様子に、侍女たちは一斉に菊乃に襲いかかった。
菊乃は必死に抵抗するが、多勢に無勢。彼女の懐から、千姫の文が落ちる。
それを女が拾い上げ、中身を読み、その瞳に嘲りの色が浮かんだ。
「これは…千姫様からの文か。そして、そなたは…江戸から来た、千姫様の侍女だな」
女は、淀殿の警戒心を煽るような存在が城内に潜入していることを、即座に察した。
淀殿は、以前から千姫が秀頼に心を寄せていることを不愉快に思っており、その原因を徳川家にあると考えていた。
菊乃の存在は、その疑念を確信に変えるものだった。
「この者は、千姫様をたぶらかし、殿を徳川の意のままに動かそうとしているのです。すぐさま、淀殿様にご報告を!」
侍女たちの声が、夜の闇に響き渡った。
菊乃は、千姫に会うことも、言葉を交わすことも叶わぬまま、淀殿の命を受けた侍女たちによって捕らえられ、囚われの身となった。




