第十話
千姫が大阪城に嫁いでから三年目の冬。
花見の宴が催され、城内は華やかな空気に包まれていた。
だが、千姫の心は晴れなかった。
秀頼との穏やかな日々は続いていたが、その傍らで、江戸の家族との文通が、彼女の心を重くしていた。
文は、月に一度、江戸から大阪へ、厳重な警備を伴って届けられた。
母・お江からの文は、いつも千姫の身を案じる温かい言葉で満ちていた。
「千、大阪の寒さは、江戸とは違うと聞きます。風邪など召してはおりませんか。着物を重ねて、どうかご自愛ください。…あなたと初めて離れて暮らす冬は、何よりもつらく、寂しいものです。もし、あなたが江戸に戻られることがあれば、この母は、どんなに嬉しく思うことでしょう。…それだけが、母のささやかな願いでございます」
千姫は、母からの文を読むたびに、胸が締め付けられる思いがした。
母は、自身がたどってきた政略結婚の過酷な運命を、娘にも経験させていることに、心を痛めている。
千姫は、母の心を察しながらも、自分の幸せな日々を、正直に書くことができなかった。母の寂しさを募らせてしまうのではないか、と恐れたからだ。
代わりに、大阪城の庭園で咲く桜の様子や、秀頼が愛する書物のことなどを、当たり障りのない言葉で綴った。
一方、父・秀忠からの文は、常に簡潔で、感情を一切表に出さないものだった。
「千姫、大阪での務め、励んでおられるか。豊臣との融和を、表向きだけでなく、心底より望んでおることを示すよう努めよ。徳川の威信を損なうことなきよう、くれぐれも心せよ。…家康様も、そなたの働きに、大いなる期待を寄せておられる」
その文面からは、父としての愛情は感じられず、ただ将軍としての冷徹な命令が伝わってきた。
千姫は、その文を読むたびに、父の期待に応えなければならないという、重い責任感に押しつぶされそうになった。
父は、自分を道具として見ている。そう思わざるを得なかった。
だが、ある日のことだった。
いつものように秀忠からの文を読んでいると、その文の末尾に、ごく小さな字で、誰も気づかないような、走り書きが添えられているのを見つけた。
「…そなたが、笑っておられるか、それだけが、父の願いである。…どうか、健やかに…」
その言葉に、千姫は息をのんだ。
その瞬間、父の冷たい言葉の奥に隠された、深い愛情が、千姫の心に溢れ出した。父は、将軍として、徳川の世を守るために、娘を犠牲にする決断を下した。
しかし、一人の父として、娘の幸せを願う気持ちを、誰にも知られないように、文に託していたのだ。
千姫は、その小さな文字を指でなぞりながら、涙が止まらなくなった。父もまた、自分と同じように、立場と感情の狭間で苦しんでいるのだと、初めて理解した。
ある日の午後、江戸から家康の使者が大阪城に到着した。
千姫は、淀殿と共に、謁見の場に呼ばれた。使者として現れたのは、千姫の傅役でもあった、家康の側近だった。
千姫は、久しぶりに聞く江戸の言葉に、懐かしさを感じた。
「千姫様、お変わりなく、何よりでございます。…家康様も、さぞやご安心なされるでしょう」
使者は、そう言って千姫に深々と頭を下げた。
だが、その言葉には、千姫の心を探るような、鋭い視線が込められていた。
「この大阪城での暮らしは、いかがでございますか?」
淀殿は、使者の問いに、にこやかに答えた。
「秀頼も千姫殿を深く愛しておられます。二人の仲は、天下の安寧を築く、何よりの礎となるでしょう」
淀殿の言葉は、豊臣と徳川の融和を強調するものだった。だが、使者は、その言葉に安堵することなく、淀殿の表情を注意深く観察していた。
その後、千姫は、使者と二人だけで話す機会を与えられた。
「千姫様、このお城の様子を、どうか、正直にお聞かせください。…特に、淀殿様が、どのようなお考えでいらっしゃるか…」
使者の言葉に、千姫は動揺した。
彼は、自分の口から、大阪城の情報を引き出そうとしている。
淀殿の警戒心、家臣たちの不穏な動き…。すべてを話せば、豊臣と徳川の関係は、さらに悪化するだろう。
しかし、父の愛を知った今、父の望む「天下の安寧」を、自分の手で壊すわけにはいかない。
「…淀殿様は、秀頼様のことを心からお慕いしておられます。そして、秀頼様と私は、夫婦として、穏やかに日々を過ごしております。それが、天下の安寧に繋がることだと、私は信じております」
千姫は、慎重に言葉を選び、使者に答えた。
千姫の言葉に、使者は何も答えず、ただ静かに千姫を見つめていた。
その瞳には、千姫の言葉が真実かどうかを測りかねるような、疑いの光が宿っていた。
千姫は、自分が、徳川と豊臣、二つの家の思惑の狭間で、細い綱を渡るような毎日を送っていることを改めて痛感した。
父と母の愛情、そして秀頼との絆。そのすべてが、政治という巨大な渦に飲み込まれていく。
千姫は、もはや、自分だけの意志では決められない、複雑な運命の道を進むのであった。




