第九話
千姫と秀頼の絆が深まるにつれ、二人の穏やかな日々は、次第に周囲の思惑に晒され始めた。
豊臣家と徳川家の間に流れる緊張は、一見、平和な大阪城の空気の下で、静かに、しかし確実に高まっていた。
豊臣家の中心にいる淀殿は、千姫が秀頼と心を通わせていることに、複雑な感情を抱いていた。
妹・お江と秀忠の血を引く千姫は、豊臣家にとっては、徳川の「人質」であると同時に、徳川家が豊臣家を監視するための「目」でもあった。
千姫が秀頼に愛情を抱き、豊臣家の一員として振る舞おうとすることは、淀殿にとっては、望ましいことである一方で、どこか不気味な違和感を感じさせていた。
ある日の夕刻、千姫が部屋で秀頼との思い出を綴った文を読んでいると、淀殿の侍女が静かに声をかけた。
「千姫様、淀殿様がお呼びでございます」
千姫が淀殿の部屋へ向かうと、淀殿はいつものように豪華な衣をまとい、静かに座っていた。
部屋の中には、淀殿が好んで飾る豪華な調度品が所狭しと並んでいるが、その空間には、温かさよりも張り詰めた空気が満ちていた。
淀殿の瞳は、秀頼を語る時の温かさとは違う、獲物を狙う鷹のような、鋭い光を宿していた。
「千姫、秀頼との仲は、いかがでございますか?」
淀殿の問いに、千姫は背筋を伸ばし、淀殿の目をまっすぐに見つめながら、正直に答えた。
「はい、秀頼様は、とてもお優しく、博識な方でございます。私にたくさんのことを教えてくださいます」
千姫の言葉に、淀殿はふっと、皮肉な笑みを浮かべた。
その笑顔は、千姫の心を冷たくさせた。
「それは、秀頼にとって、良いこと。徳川の姫であるそなたが、秀頼の心を繋ぎ止めている。…しかし、決して忘れてはなりません。そなたは、徳川の姫。秀頼は、豊臣の当主。この二つの家が、同じ道を歩むことはありませぬ」
淀殿の声は、静かでありながら、千姫の心を突き刺す、氷の刃のようだった。
千姫は、胸にこみ上げる不安を押し殺し、静かに頭を下げた。
「…御意にございます」
淀殿は、さらに言葉を続けた。
「そなたは、徳川と豊臣の絆となるために、この城へ参った。それは、皆が知るところ。しかし、この絆が、徳川の天下安寧のためだけにあると、思っておるのか?」
千姫は、淀殿の真意を測りかね、息をのんだ。
淀殿は、ゆっくりと千姫に歩み寄り、その小さな肩に手を置いた。
その手は、冷たく、まるで千姫の心を見透かそうとしているかのようだった。
「良いか。この絆は、豊臣が再び、天下を取るための礎でもあるのだ。そなたの祖父、家康は、表向きは和睦を唱えるが、その心の中では、我らを滅ぼす機を伺っている。…そなたは、その家康の心を、秀頼に伝える役目がある。わかっているな?」
千姫は、その言葉に、心臓が凍り付くのを感じた。
徳川と豊臣の絆を結ぶため、そう信じていた婚姻が、実は、互いの思惑が複雑に絡み合った、危険な罠だったのだ。
千姫は、自分が、徳川と豊臣、二つの家の間で、綱渡りを強いられる存在なのだと悟った。
一方、大阪城の家臣たちの間でも、秀頼と千姫の関係は、様々な憶測を呼んでいた。
豊臣恩顧の武将たちは、徳川の姫に秀頼が心を奪われることを警戒し、秀頼を徳川から遠ざけようと画策していた。
「殿は、近頃、徳川の姫とばかり過ごされておられる。このままでは、徳川に感化されてしまうのではないか」
「しかし、あの姫は、徳川の天下安寧のため、殿を支えるお役目…」
「何を言われる。徳川の安寧は、豊臣の滅亡。そのことを、お忘れか?」
家臣たちの間では、密かに不穏な空気が渦巻いていた。
彼らは、秀頼を、豊臣家の威信をかけた戦の旗印として、徳川と対峙させようと考えていた。
秀頼が千姫に心を許し、徳川との融和を望むことは、彼らの計画を狂わせるものだった。
そして、その思惑は、千姫の耳にも届き始めていた。
ある日、侍女が千姫の着物を整えながら、小さな声で囁いた。
「姫様、どうか、秀頼様には、お心を全てお見せになられぬよう…。秀頼様のご寵愛が深まるほど、殿を操ろうとする者たちが、徳川を警戒し、姫様を遠ざけようとするでしょう」
侍女の言葉は、千姫にとって、大きな衝撃だった。
彼女と秀頼のささやかな幸せが、政治の渦に飲み込まれていく。
千姫は、この巨大な城の中で、どこに味方がいるのか分からなくなり、深い孤独に襲われた。
千姫と秀頼は今、二人の意志とは無関係に、険しい山道へと入ろうとしていた。




