プロローグ
慶長2年(1597年)5月、未だ平穏とは言えない世に、江戸城にて一人の姫君が産声を上げた。
その幼き命は、徳川の世が千代に八千代に続くよう、願いを込めて千と名付けられた。
この姫君は、ただの姫ではなかった。
父は、やがて二代将軍となる徳川秀忠。
母は、天下の英雄・織田信長の姪にあたるお江。
彼女の血には、天下を統一した徳川の血と、戦国の世を駆け抜けた織田の血が、二つの強大な流れとなって脈打っていた。
祖父・徳川家康にとって、この血筋は、豊臣との間に残された火種を完全に消し去るための、最後の希望であった。
「これは、千代に八千代に、徳川の世が続く証しじゃ」
家康は、その小さな手を優しく包み込み、老いた顔をほころばせた。
しかし、その慈愛に満ちた眼差しの奥には、彼女が将来、徳川の血筋を天下に知らしめる存在となることへの冷たい期待が隠されていた。
千姫の存在は、徳川の天下を確固たるものとするための、最も重要な駒だった。
千姫は、祖父の言葉通り、徳川の血を最も濃く引く姫として、大奥の女性たちから特別に扱われた。
豪華な産着、贅を尽くした調度品、そして周りの大人たちの優しい眼差し。
それは、安寧の内に育む寵愛であると同時に、彼女の人生がすでに、見えない鎖で繋がれていることを示唆していた。
この寵愛は、彼女を天下の姫君として育てるためのものであり、彼女自身の意思とは関係なく、その運命は生まれたときから定められていた。
静謐な大奥で、無邪気に笑う千姫。彼女はまだ知らなかった。
この温かな鳥籠が、やがて自らの運命を大きく変える、冷酷な政略の始まりであるということを。
それは、彼女の生涯を「徳川の姫としての使命」と、「一人の女性としての幸せ」という二つの道に引き裂く、姫の路』の始まりだった。




