第50話 あのぷにぷにな腹が恋しい 後編
「…………なに、甘えたこと言ってんだよ」
ドスのきいた声が鼓膜を揺らした瞬間、細胞が凍り付くような悪寒が全身を突き抜けていった。
その声が白雪さんの声だと理解するのに、数秒かかった。
それほどまでに普段のイメージとかけ離れていて、俺の脳が混乱している。
「島田くん」
近寄ってくる。
大股で、ズケズケと。
仇を討たんとする武士のような勇ましさで。
「ねえ、さっきから聞いてたら、何アホなこと言ってるの?」
「アホって……」
「今の島田くんはアホだ。バカだ。意気地なしのゴミでしょ。ゴキブリ以下なんじゃない?」
言い返したくても、口が開かない。
白雪さんの眼には、有無を言わせない迫力が宿っている。
だけど、それ以上に、心の奥底では理解してしまっているからかもしれない。
今の俺は情けない、と。
同時に。
その情けない自分から、どうしても抜け出せない。
「休むならいいよ。でも、今の君はふさぎ込んでいるだけだ。逃げているだけだ」
逃げている。
その言葉が胸に突き刺さって、息が詰まった。
「島田くんは御所さんの顔を1度も見てないでしょ」
「親父の……顔……?」
ずっと、親父は顔を見せていなかった。
「御所さんは、ずっと姐さんを探してたんだよ」
「探す……?」
このようなトンネルで、何ができるというのだ。
「トンネルを通る人や自動車に式神をつけて、運ばせていたんだ。少しでも探知範囲を広げるためにね。御手くんが寝ている間も、休むことなく」
「で、でも、親父は休憩してるって……」
「それは君に休んでほしかったからでしょっ! そんなこともわかんないの!?」
「…………ぁ」
……そう、か。
それなのに、俺はなんて酷いことを……。
俺は、ただの足手まといだ。
親父の負担にしかなってない。
もういっそのこと、このまま何もしなければ――
「島田 御手ッッッ!!!!!!!」
気付くと、唾がかかるほどの近さで怒鳴られていた。
「君は何がしたいの!? 君はなんのために頑張ってるの!?」
「なん……の、ため」
「何を求めているの!? どんな未来がいいの!? どこに向かっているの!?」
求めるもの。
未来。
向かう先。
今の俺が、欲しているもの。
……明麻絵。
明麻絵だ。
明麻絵を助けたい。
「悔しくないの!?!?」
周囲が冷たい。
白雪さんからあふれ出た冷気の霧が炎のように揺らめいていて、周囲が霜でおおわれていく。
まつげが凍り付くほどの、極寒。
だけど、胸の中がひどく熱い。
「くや……しい……?」
なにを、悔しがればいいんだ。
「島田くんっていつもそうだよね。他人と全然競おうとしない」
上も下も、見渡すと果てしない。競っても仕方がない。今自分ができることを見つめるだけでいい。
それが、正しい人間というものだろう。
ずっと、そう思い込んでいた。
「自分は自分。他人は他人。それができるのは、唯一無二の天才だけだよ。力がある人だけに許された特権。君みたいな凡人がそんな甘えたことをしていたら、全部を奪われる」
……言わないでくれよ。
俺の今までの生き方を否定しないでくれ。
「女々しいんだよ!!!」
「――っ!」
俺が、一番ぶつけられたくなかった言葉。
「ぬらりひょんが憎くないの!?」
「……あぁ」
あの光景がフラッシュバックする。
明麻絵がさらわれた瞬間。
母さんの目玉が頬に貼りついた瞬間。
「あいつは今頃、姐さんに、御手くんがまだしてなかったことを、たくさんしているかもしれない。キスのもっと先とか――」
俺はまだ、腹枕しかしていない。
キスまでしかしていない。
キスなんか、まともにやったのは数回もない。
俺は彼女の体に触るだけでもドキドキして、心が全然落ち着かない。
それなのに、あいつは――
「もう一度聞くよ。御手くんは何をしたいの?」
「俺は……俺は……」
湧き上がってくる。
これがなんなのか、自分でもわからない。
だけど、なんとなく吐き出してはいけない気がする。
それなのに止められない。
止めてはいけないと、誰かが叫んでいる。
「明麻絵を、誰かに奪われたくない。誰にも触らせたくない。ずっとずっと、俺だけに笑顔を向けてほしい。彼女の全部を、俺だけのものにしたい」
…………ああ。言ってしまった。
俺の汚い部分。
まったく、俺らしくない部分。
「ふざけるなよ」
自然と、口が動いていた。
「ふざけるなよ。ぬらりひょん」
冷たくて力が入らなかった四肢が、ワナワナと震える。
「俺の母親を殺したうえに、俺の最愛の人まで……」
許さない。
許せない。
「許せるわけがない」
全部、あいつが悪いんだ。
あいつがいなければ、俺の平和はこんなに乱されなかった。
苦しみも。
葛藤も。
絶望も。
失望も。
全部、あいつが生きているせいだ。
「どうせジジイらしい短小のくせに、一丁前に興奮してんじゃねえよ……」
あの憎い顔が、万華鏡みたいに浮かんでくる。
ドブみたいな声が、耳の中で反響している。
「あのクソロリコン野郎がっ! そもそも自分の子孫に欲情している時点で変態すぎんだろ! 誰にも好かれてない癖に妖怪の総大将なんて名乗りやがって! 惨めに虫でも食ってるのがお似合いなんだよ、あの銀河一のドブカスクソ野郎がよおッッッ!!!!」
「……ぷっ」
…………あれ?
俺は、何を。
「あははははははははははははははははは!!!」
白雪さんの笑い声が耳に入って、ようやく自分が何を叫んだのか、理解できた。
「す、すまない」
「ううん。その調子だよ」
「……いい、のか?」
「島田くん、とってもいい顔になってる」
顔は自分ではわからないが、頭がスッキリした気がする。
いや、それだけではない。
心の中にずっと溜まっていた、でかい耳くそみたいな存在が取れた気分だ。
「な、何を叫んでるんだい!?」
「……親父」
叫び声を聞きつけたのだろう。
親父が慌てた様子で、俺に駆け寄ってきている。
そうだ。
俺は親父に言っておかねばならないことがあるのだ。
「親父、すまなかった」
「あ、え、そういう流れ……?」
「俺は酷いことを言ってしまった。親父は全力を尽くしてくれていたというのに」
「僕も言い方が悪かったから」
「ああ。親父も悪い」
今回のことは俺が悪かった。
だが、全部が俺のせいじゃないだろ。
「全部終わったら、母さんの墓に行くぞ! それで、燃やすぞ!」
「な、なにをっ!?」
「どうせ、恋文のひとつやふたつを残しているんだろ? もちろん、母さんとのじゃないぞ」
「それは……っ!」
親父は俺の親だ。
俺と同じで、女々しいところがあるのはわかっている。
いや、今理解したんだ。
「母さんが心の底から納得していた訳ないだろ。親父の気持ちを汲み、涙を呑んでいたに決まっている」
「だ、だけど――」
「母さんがよくても、俺が許さない! 親父がどれだけ陰陽師として優れていても関係ない。俺が母さんの息子として、親父のダメな部分を叩き直してやる! 紙透家のみんなの前で、徹底的に粉砕してやるっ!!!」
親父は情けない顔をしながら、俺をみている。
ああ。
親父の目をちゃんと見るのは、いつぶりだろうか。
こんなに頼りない目をしていたのか。
なんなにナヨナヨしていたのか。
俺はこんな未熟な人間を、完璧な大人だと思っていたのか。
「そのために絶対に勝つぞ。どんな手段を使っても、明麻絵を連れ戻す」
母さんに望まれたからでもない。親父の初恋の相手の娘だからじゃない。
血とか関係は全部どうでもいい。俺のこの気持ちは、そんなちっぽけなものじゃ揺るがないし、決められない。
俺は御手という男だから。
彼女は明麻絵という女だから。
だからこそ、好きになったんだ。
そう叫ぶために、絶対に見つけるんだ!!!
「……ああ」
親父のまぶたが、しっとりと閉じていく。
「そうだね」
親父の口から漏れた声は、とても安らかだった。
親父が何を思ったのかは俺にはわからない。
だが、俺の気持ちが少しぐらいは伝わったようだ。
「あ、やっと終わった?」
「……宅島さん」
奥さんと一緒に鍋を持ってきたようだ。
「とりあえずご飯でも食べないかい?」
「……ご飯」
鍋からただよう匂いを嗅いだだけで、腹が鳴って、ヨダレがあふれ出てくる。
「お、豚汁かい? なんか寒いし、ちょうどいいや」
「おにぎりもありますよー。僕のお嫁さんが握ったやつ」
宅島さんの奥さん(地縛霊)は、照れながらおにぎりを持ってきてくれた。
「ほら、冷めないうちに食べてください」
おにぎりには塩味がほとんどついていなかった。
奥さんは幽霊だから、塩が苦手なのだろう。
その分、豚汁は強めに味噌がきいていて、食べ進める手が止まらなくなっていく。
一旦落ち着いて顔を上げると、宅島さんは奥さんからご飯を食べさせてもらっていた。
傍から見ればバカっぽいが、2人の表情はとても幸せそうで、ほほえましく思ってしまう。
俺も、こんな生活を送りたい。
だから。
絶対に迎えに行く。
待っていてくれ、明麻絵。




