第3話「強い飢えと才能」
小屋の中を満たしていた腐臭が、わずかに薄れた気がした。
レイアは、やよいと向かい合ったまま、まだ銃を完全には手放せずにいる。少女は焚き火の明かりもない闇の中で、自分の胸元を見下ろし、銃創に触れていた。血は止まってはいない。ただ、垂れる速度が異様に遅い。
「やよい」
レイアは呼びかける。自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「いつから、ここで暮らしているの?」
少女は首をかしげる。考える、というより、過去を手探りするような間。
「……わからない。前、あった。ここじゃない、とこ。でも……痛くて、こわくて。眠って、起きたら……ここ」
「親は? 一緒にいた人は?」
「……わからない」
即答だった。迷いがないということは、本当に覚えていないか、覚えているものを心が拒んでいるか。そのどちらかだ。
やよいは薄く笑う。笑っているのに、その目は乾いた井戸の底のようだった。
「忘れた。忘れたら、楽。お腹すくことだけ、考えればいい」
その言葉に、レイアの胸の奥で何かがきしむ。
問い質せば血の跡が増えるだけだと、職務で知っている。だがこの少女の場合、それは本当に命綱だったのかもしれない。
そのときだった。
森の奥から、甲高い悲鳴が響いた。
獣の声。裂けるような絶叫と、何かがもがく低い衝撃音。レイアの指が自然と銃に添えられるより早く、やよいの肩がびくりと跳ねる。
「……お腹、すいた」
次の瞬間、やよいの瞳に、ぎらりとした光が灯った。
人間の目とは別の、もっと単純で、もっと貪欲な光。さっきまでの鈍い静けさが反転し、異様な生気が全身に満ちる。
「待ちなさい、ひとりで——」
言い終わる前に、やよいは駆け出していた。
足音をほとんど立てず、闇を裂くように森へ消えていく。
レイアは舌打ちを飲み込み、後を追った。
森の夜気は冷たく、湿っていた。
月の光が木々の隙間からこぼれ、地面に不規則なまだら模様を描いている。その斑が揺れるたび、何かが横切った錯覚を生む。レイアはそれを視界の端で払い落としながら、前を行く小さな影を追う。
金属の噛み合う音がした。
やよいが足を止めた先には、一頭のシカがいた。
後ろ脚を巨大な鉄の歯に挟まれ、苦痛に喉を震わせてもがいている。罠——トラバサミだ。森に似つかわしくないほど新品に見えるそれは、この少女が拾ったか、盗んだか、あるいは誰かの遺留品なのだろう。
やよいは振り返らない。レイアに気を配る様子もなく、懐から一本のナイフを取り出した。刃はよく研がれ、夜でも輪郭がわかる。
シカの目が、助けを乞うように見開かれる。
やよいはすっと近づき、その喉元を一点の迷いなく突いた。
ひと息。
シカの身体がびくりと跳ね、すぐに脱力して静かになる。
「痛い思い、させないために……静かになるところ、覚えたの」
そう呟いた少女の顔を、月光が照らす。
口元には、薄い笑み。だがその瞳は黒く濁ったまま、深みなく光を返すだけ。不気味なほどの落ち着きと、血飛沫が、その違和感を際立たせていた。
レイアは、思わず息を呑む。
この手順、この動き。誰かに教わったのではなく、「繰り返して覚えた」者の手つきだ。
やよいは罠を外すと、ずるずるとシカを引きずり始める。痩せた腕で扱うには重いはずなのに、その動きに迷いはない。
「手伝うわ」
レイアが声をかけると、やよいは振り返り、小さく「ありがとう」と言った。
言葉だけは普通の礼の形をしている。しかし、その瞳はやはり鈍い光を湛えている。何かが欠けたまま、形だけをなぞる子供。
レイアは片方の脚を持ち、シカを運ぶのを手伝った。血の跡が、森の土に不規則な軌跡を描いていく。
やがて二人は、小さな開けた場所に出た。
周囲を木々に囲まれた、ぽつりと盛り上がった小山のような場所。そこが、やよいの「台所」であることは、一目でわかった。
落ち葉を払った痕跡、黒く焦げた石。
彼女はそこにしゃがみ込むと、手際よく枝を集め、火打石を取り出した。まだ十歳にも満たないような少女の動きとは思えないほど、慣れきった所作だった。
ぱち、と火花が散り、乾いた枝が音を立てて火を受け取る。
橙の光がやよいの横顔を照らし出し、その頬に乾きかけた血の筋を浮かび上がらせた。
「あなたにも、あげる。でも……我慢できない」
そう告げると、やよいはまだ火が十分に回っていないシカの肉を、ナイフで乱暴に削ぎ取り、そのまま口に運んだ。噛みちぎる音が生々しく響く。
赤い汁が唇の端から零れ落ち、顎を伝い、首筋を汚す。
息が荒くなる。目が爛々と光る。獣じみた咀嚼音と、血の匂いが、レイアの鼻腔を刺す。
——これは、飢えだ。
ただの空腹ではない。奪ってでも、生き残ってでも、埋めなければならなかった年月の渇きが、その小さな口の中で噛み砕かれている。
レイアは一歩、後ろに下がりかけた自分の足を止めた。
恐怖はあった。
だが、それを顔に出せば、この少女との「細い橋」が折れる気がした。
レイアは表情を変えず、焚き火の明かりを見つめるふりをした。
やよいはやがて大きめの肉片を串に刺し、火の上にかざし始める。焼ける音が、森の静寂の中で心地よく響いた。
「私は食べるものを持っているからいいわ」
レイアがそう言うと、やよいは首を振る。
「いっしょ、食べて。ひとりで食べるとね、さみしい。お腹はいっぱいでも、ここ……空っぽになる」
胸のあたりを、血に汚れた指でとん、と叩く。
差し出された肉は、ただ焚き火で炙っただけのもの。香草も塩もない。
噛めば、強い獣臭と鉄の味が口に広がる。それでも、レイアは一口かじった。
「……悪くないわ」
そう言うと、やよいはほんの少しだけ、幼い顔にあどけなさのようなものを浮かべた。
その一瞬、レイアは「怪物」ではなく「子供」を見た気がする。
だが、その印象はすぐに打ち消されることになる。
やよいが突然、鼻をひくひくと動かした。
「……もう一つ、食べ物、増えた」
レイアが眉をひそめる間もなく、やよいは暗がりへ視線を向ける。
焚き火の光が届かない木陰で、小さな影が走った。ネズミだ。
やよいの指が懐へ滑り込み、ナイフが闇を裂く。
ひゅ、と乾いた風切り音。次の瞬間、逃げ出したネズミの頭部に刃が突き立っていた。
それを回収し、黙って木の枝を削って刺す。焚き火の上へかざす。
血抜きも躊躇もない。一連の動作は、シカの時よりも早く滑らかだった。
レイアは、焚き火越しにその横顔を見つめる。
恐怖と同時に、別の感情が胸に芽生えているのを自覚する。
——この子は、狩りができる。
罠を使い、動物を殺し、痕跡を隠すこともできる。音もなく動き、躊躇なく急所を撃ち抜くことができる。
裏の任務に生きる者として、レイアは知っていた。
これは「才能」だ。戦場や闇の仕事において、喉から手が出るほど欲しがられる種類の資質。
やよいは焼けたネズミを小さくちぎり、平然と口に運ぶ。
焚き火の赤が、彼女の瞳の奥で揺れた。
濁った黒の底に、燃え残った何かが、確かにきらりと瞬く。
レイアは、その光から目を逸らさなかった。
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