第1話「ナイトメア・ウサギは笑ってやって来る」
夜の路地裏に、銃声も怒号もなかった。
あったのは、「倒れた後」の静けさだけだ。
「……おい。さっきまで四人、ここにいたよな?」
「いた。はずだ。お前と、俺と、後ろの見張りと……え?」
見張りに声をかけた男が、振り返った先で固まる。
さっきまで壁にもたれて煙草を吸っていた仲間が、音もなく地面に崩れ落ちていた。
「おい、冗談――」
駆け寄ろうとした男の足が止まる。
足元で転がっている黒ずくめの腕は、不自然な角度に折れ、指先がびくびくと震えていた。致命傷ではない。だが、刃物で掠めた細い傷口の周りが、じわりと紫色に染まっている。
「あ、動かないと思うよ~。痺れ薬入りだから」
頭上から声が降る。
見上げた時にはもう遅い。
ビルの縁からひらりと降りてきた影が、一人の背後に音もなく着地し、その首筋を軽くなぞった。
「あ?」
男の身体から力が抜け、そのまま崩れ落ちた。
残る二人は慌てて武器を構える。
そのうちの一人が、前方に現れた小さな影へ向けて剣を振り下ろした。
「捕まえたぞ、この――」
手応えは空を切る。
影は、そこにはいなかった。
代わりに、風だけが頬を撫でる。
「残念。そっちは影ピョン」
真横から囁き声。反射的に振り向くと、そこには誰もいない。
背筋に冷たいものが走る。気配が四方八方から揺らぎ、視界の端で何かが動くたび、心臓が跳ねる。
「どこだ……どこに――」
瞬きをした、その一拍。
世界から、音と気配が消えた。
まるで自分だけが取り残されたような、圧迫感。
次の瞬間、膝が折れた。腕から、剣が滑り落ちる。
遅れて、手首に触れたかどうかもわからないほどの浅い痛みと、そこから走る痺れに気付く。
「ひ、ひっ……」
最後の一人が後ずさる。
四人いたはずの仲間は、誰一人として致命傷を負っていないのに、全員が立てなくなっていた。
路地の奥に立つ少女が、ひらひらと手を振る。
「はい、これで最後~。掠っただけで動けなくなるの、不思議でしょ? でも安心して、毒じゃなくて痺れ薬だから。起きたら真面目に働こうね?」
「お、お前……ナイトメア……」
「そうそう」
少女はひょいと近づき、しゃがみ込み、男と視線を合わせた。
黒髪を高い位置でまとめ、和装を軽く着崩し、腰には細身の刀。
年の頃は十七歳ほど。大きな瞳に、くっきりとした睫毛。
一目で目を奪われる、整った顔立ち。
この場に倒れている者たちを、一瞬で狩った張本人だとは、とても思えない。
「ナイトメア・ウサギ隊、一人部隊。八雲弥生だピョン☆」
彼女は胸を張って名乗った。
男は震えたまま首を振る。
「ウサギ……? ふざけてんのか……」
「ふざけてないよ~。ナイトメアもウサギも本物。悪夢みたいに静かに来て、ぴょんって跳んで、刃を当てるの。ね?」
その声音は柔らかく、冗談めいている。
だが喉元に当てられた刃は、冷たく正確だった。
「二度と、この街の避難ルートに手を出さないって、約束してね」
「だ、出さない! 出さねぇ! ちくしょう、何者なんだお前……!」
「何者でもいいでしょ? 困った人を斬るだけだよ」
弥生は端末を取り出し、男の指を掴んで依頼完了の電子サインをさせる。
「はい、お仕事おしまい。おじさんたちは数時間したら痺れが切れるから、その間に悪い夢でも見て反省してね。ナイトメアは一回こっきりだよ?」
ひらひらと手を振り、くるりと背を向けた。
足音はない。
本当に、風に紛れて消えたようだった。
残された男たちは、自分たちがいつ、どこで、どうやって倒されたのかを最後まで理解できなかった。
路地を抜けて、人気のない通りに出る。
夜の冷気が、わずかな血の匂いを攫っていく。
「……ふぅ。殺さないって、結構疲れるんだよね」
誰もいないのを確認してから、弥生は小さく息を吐いた。
刀についた痺れ薬を布で拭い、鞘に納める。
この刀は、自分のために改造したものだ。重さを変えられる機構と、刃に馴染ませた痺れ薬。殺すための武器を、「殺さなくて済む刃」に、ほんの少しだけ寄せた。
携帯端末の画面に、依頼完了と報酬予定の文字が灯る。
「よし。これで、またちょっとだけ旅館代とティラミス代が稼げた」
冗談めかして呟きながら、夜空を仰ぐ。
星の配置が、遠い国を思い出させる。
――ソルセリス。
異種族と魔術の国。
かつて、不法な異邦人の少女を「保護」し、「生徒」として迎え、「子ども」にしてくれた場所。
大雑把で口の悪い警官。
甘党でぶっきらぼうで、でも頭を撫でてくれた人。
『いつか遊びに来い。ケーキならいくらでも奢ってやるから。約束、な』
ヴェル・ローグスの声が、不意に耳の奥で蘇る。
あの時は笑って頷いた。
だけど本当は、泣きそうなくらい嬉しかった。
「……覚えてるよ。ちゃんと行くから」
ぽつりと零した声は、夜風に溶けて消える。
弥生は自分の胸元をぎゅっと掴んだ。
そこにあるのは、もう戻らないと思っていた居場所への約束。
「会いに行くからね、ソルセリスのみんな」
今度ははっきりと口にする。
語尾に「ピョン」は付けなかった。
ふざけないで言いたい言葉も、彼女にはちゃんとある。
音もなく。
気配もなく。
ただ、刃の届く範囲だけを、正確に選び取りながら。
人知れず夜を駆ける「ナイトメア・ウサギ」の姿は、瞬く間に街から消えた。
残るのは、静かな路地と、痺れて倒れた悪党たち。
八雲弥生の物語は、ここが始まりではない。
もっと前。
祝福されることなく生まれた勇者の血。
五歳で捨てられ、人身売買され、山で人を狩り、殺すことだけが生存手段だった小さな兎の話。
あの日、彼女に手を伸ばした女がいる。
レイア・ルーネウェン。
地獄に居場所を見つけようとしていた「人斬り」を、別の地獄に引き上げ、それでもなお、彼女に「生き延びる理由」を与えてしまった女。
――それは、ナイトメア・ウサギが刃を隠して笑えるようになるまでの、最初の悪夢の記憶。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
次回もよろしくお願いします!




