僕がカレーライスに味噌汁が必要な理由
カレーは飲み物だ。
ごはんにかけてあっても、ごはんすら飲み物の一部に変えてしまう。カレーをかけられた瞬間、ごはんはまるでタピオカミルクティーのタピオカのごとき存在に変貌してしまう。
自分でカレーを作ったら、必ず三杯はおかわりをしていた。
あっという間に、ぬるい飲み物でも飲むように一皿を食べきってしまうので、物足りなくて、次から次へとおかわりしたのだ。それで腹がようやく満たされた頃には、物凄いカロリーを摂取してしまっていた。
おかげでその頃の僕の体型は、まるで耳のない猫型ロボットのようだった。
つまようじみたいに細い彼女と出会ったのは、大学二年生の頃だった。
猫型ロボットみたいな体型の僕は、一人暮らしのアパートの部屋で、いつもゴロゴロしていた。
田舎のお袋から電話がかかってきた。
『のぶゆき、ちゃんと部屋、綺麗にしてる?』
そう聞かれ、僕は正直に答えなかった。
「うん、綺麗にしてるよ」
ほんとうはめちゃくちゃだった。ゴミが床の上に散乱し、足の踏み場もない状態だった。
『そっか……』
母はそんな僕の嘘をすぐ見破った。
『従姉妹の愛ちゃん、覚えてる? あの子に言ったら、あんたの部屋に掃除しに行ってくれるって』
「はぁ!?」
唐突にそんなことを言われ、丸い体が飛び起きた。
「愛ちゃんて……、誰!?」
『覚えてない? マスオ伯父さんとこの、次女。あんたの一つ上。あんたが幼稚園の頃、うちに遊びに来たよ?』
「そんな昔のこと覚えてないよっ! っていうか、僕の部屋に女の子が来るの!? いつ!?」
『昨日、話したら、日曜日の昼頃にでも行くって言ってたから……』
日曜日といえば、今日だ。
『ぼちぼち来るんじゃない?』
呼び鈴が甲高く鳴った。
電話を切り、おそるおそる玄関へ行き、ドアを開けると、つまようじみたいに細い女の子がそこに立っていた。重たそうなスーパーのビニール袋を二つぶら下げながら、丸い黒ぶちメガネの奥の目を恥ずかしそうに笑わせて、僕に言った。
「やー! のぶくん、あたしんこと覚えちょお?」
何語だ、これ……。
マスオ伯父さんといえば、確か島根県に住んでるはずだ。
すると島根の方言か──
なんにしろ、その田舎くさい喋り方と、何かのモデルさんみたいなルックスが不似合いで、僕はたじろいだ。
夏だった。
彼女の着ているものは露出が多く、露出しているところが汗ばんでいて、そのことにも僕はたじろがされた。
「暑かったー! 中、入るよ?」
強引なまでに彼女はサンダルを脱ぎ、部屋の中へ上がり込んできた。従姉妹とはいえそのあまりの遠慮のなさに、僕のたじろぎは最高潮に達した。
「わー! これはいけんが!」
僕の部屋を見るなり、方言でまくし立てた。
「きゃんに散らかっちょーとは思わんかったに! か、想定外だわ!」
「あ……あの……」
僕は彼女の背中に言った。
「あ、愛ちゃん……。17年ぶり」
「うん! こげに久しぶりに会ってもあーだが! 従姉妹同士だけん、ちーとも緊張せんが!」
翻訳すると『久しぶりに会っても従姉妹同士だからまったく緊張しないよね』ということだろう。
しかし、それはあなただけだ! 突然こんなかわいい女の子に部屋の中に入って来られて、僕が緊張しないわけがない!
愛ちゃんが聞いてきた。
「ところであたしが来ーこと、おばさんから聞いちょった?」
「ついさっき、聞いたとこ……」
「あー、そーでかー。あたしが来ーって知っちょったら、少しは片付けーだろーもんね」
愛ちゃんはショートカットの前髪をかき上げ、汗を拭うと、タオルを鉢巻きみたいに巻いて、勇ましく言った。
「よし! 片付けすーよ? 触られたら困ーもんあったらそれは自分で片付けて?」
綺麗になった。
自分の部屋とは思えないほど、綺麗になった。
僕は恥ずかしさに、部屋の隅に体育座りをしたまま、動けずにいた。汚部屋を女の子に見られた上、それをほぼすべて片付けてもらって、自分では何もできなかった。恥じ入るあまり、俯いていた。
「あー、お腹空いたね」
鉢巻きを外しながら、愛ちゃんが笑った。
「ごはんにしよう」
そう言いながら、冷蔵庫に入れてあった持参したものを取り出した。
ぶら下げていたスーパーのビニール袋の中身は、おおきなタッパーと、いくつかの調味料、そして生のしじみだった。
「カレー作って持って来たけん、一緒に食べよう」
「えっ、カレー!?」
僕は顔を上げた。
「僕、大好物だよ! ……あまりに好きすぎて、こんな体型になっちゃったけど」
「うんうん。のぶくん、昔とえらい体型変わったよねー」
愛ちゃんがからかうように笑う。
「でも大丈夫だに! あたしのカレー食べたら、痩せーかもしれんよ!」
いや……。カレーダイエットなんて、聞いたこともないが?
そう思っている僕の前で、愛ちゃんはシャキシャキと料理を始めた。
電子レンジがメロディーを奏でた。
取り出した熱々のおおきなタッパーを開けると、たまらないカレーのいい匂いが部屋じゅうに充満する。炊いてあったごはんにオタマでそれをかけると、ラッキョウを添え、スプーンをつけ、そして愛ちゃんはカレーライスをテーブルに置いた。しじみの味噌汁と一緒に──
「み、味噌汁……?」
僕は思わず声を漏らした。
「カレーに味噌汁って……、おかしくない?」
「あたしね──」
エプロンをはずしながら、愛ちゃんが言う。
「高校ん頃は太っちょったに。のぶくんほどじゃないけど──」
「は?」
たるんだところのひとつも見当たらない愛ちゃんのプロポーションを眺め回しながら、僕は言った。
「ま、まさか……。そんなモデルみたいな体型なのに」
「まっ! 食べよ! 食べよう!」
スパイシーなカレーの香りが鼻をくすぐる。たまらず僕はスプーンを手にした。
「いただきまーす」
そして一口含むなり、声が出た。
「うまっ! こんなうまいカレー、初めて食べた!」
「ふふ……。嬉しいな」
愛ちゃんのかわいすぎる顔が目の前で笑い、言った。
「味噌汁も飲んで?」
僕は汁椀を見つめた。
殻ごとしじみがたくさん入った味噌汁は、美味しそうだった。
でも、カレーに必要なものじゃない……そう思いながらも、勧められたので、口にした。
声が出た。
「……合う」
「でしょっ?」
愛ちゃんが嬉しそうに少し跳ねた。
「そーに、合うだけじゃないに」
味噌汁の脇には割り箸が置かれていた。
確かに、具が他のものならスプーンででも食べられるが、こいつには無理だ。
殻から貝肉を外して食べるには、どうしても箸がいる。
ちまちまと貝肉を外し、味噌汁を啜り、またスプーンを手にしてカレーと向かい合い、そこで僕は気づいた。
「あっ! カレーが飲み物じゃなくなってる!」
味噌汁という飲み物と、しじみという手のかかるものと合わさっただけで、僕にとっては飲み物だったカレーが、別物になっていた。
いつもはあっという間に、飲むように一皿を食べきってしまうのが、時間をかけてゆっくり食べる『食べ物』に変身していたのだ。
「松江にね、こげなふうに、しじみの味噌汁をカレーにつけてくれーお店があるんだわね」
愛ちゃんが思い出すような顔をしながら、言う。
「あたしもカレーは飲み物だって思っちょったんだけど、そのお店のカレーを知ってからは、自分でもカレーん時には味噌汁つけーよーになってねー」
「あっ。それで、そういう体型に?」
「そーだけじゃないけど、あれから痩せはじめたに」
確かにこれはいいと思った。
これならおかわりしなくても、一皿だけで満足感がある。
「ところで愛ちゃん、近くに住んでるの?」
僕はしじみを殻から外しながら、聞いた。
「うん。あたしものぶくんが結構近くに住んじょーって知って、おべたに(びっくりしたよ)!」
愛ちゃんは唇をちょっとだけカレー色にしながら、嬉しそうに笑った。
「覚えちょお? のぶくん、昔、あたしのこと、お嫁さんにしたいって言っちょったよ?」
「え! そ、そんなの……幼稚園の頃のことだろ! それに従姉妹同士で結婚とか──」
「知らんの? 従姉妹なら結婚できーよ? 何よりのぶくんのお父さんとあたしのお父さん、異母兄弟だけん、それこそ血が薄いし」
「へ……、へー……!」
僕は白々しく話題を変えた。
「うまい、うまい。うまい上に健康にもいいなんて、すごいね! 僕もこれからカレーには味噌汁つけるよ」
「しじみの味噌汁、作れるかな?」
意地悪そうな笑顔で、愛ちゃんが言う。
「手間かかるよ? インスタントだと、殻がついちょらんし」
「じゃあ……」
僕は箸を置き、畏まって、冗談のつもりで言った。
「結婚してください」
─────────────
今でも僕は、カレーにはしじみの味噌汁が必要だ。
大学を卒業し、島根県松江市にある会社に就職した。
カレーを食べる時にはいつも宍道湖名産のしじみをたっぷり入れた味噌汁をつける。
今朝もそんな味噌汁つきカレーライスを食べ終わると、会社へ行くためスーツに着替えた。贅肉のすっかりとれた体にスーツを纏うと、2歳の娘が褒めてくれる。
「わー、パパ! いつもかっくいー!」
「ふふ……。そうだろう?」
娘の頭を撫でると、妻に行ってきますのキスをする。
「今朝のカレーもうまかったよ」
「ごめんね?」
愛が申し訳なさそうに笑う。
「砂吐かせるのが上手にできんくて……。ザリザリしちょったでしょ?」
「そんなのも美味しさのうちだよ」
もう一度キスをした。
「愛の作るカレーとしじみの味噌汁はいつでも最高さ」
カレーとしじみの味噌汁が繋いだ結婚だった。
もう僕にはこれなしでは生きてすらいけない。
しじみの味噌汁のないカレーなんて、愛のない結婚生活みたいなものだ。