下らない
「意外だなぁ。そんな風に思うだなんて……」
ひとしきり笑った後、水恩は僕に向かってそう言った。
その後に放たれた言葉は、僕の胸のど真ん中を突いた。
「本当は『返したくない』って思っているクセに」
図星だった。
返したくない、せっかく貰ったのに、と思っていた。
でも、同じくらい恐怖もある。
このままいくと、自制が効かなくなってしまう恐怖が。
「それは、あなたがまだ子供だからよ」
「ええ……」
僕は「子供じゃないっ!」と言いかけた口を閉じる。
それこそ、「子供」の証のような気がしたからだ。
「だいいち、一度上げた力を戻す方法なんて、私知らないもん」
「そ、そうなの?……ああっ、ですか?」
僕が変に畏まるのが面白いのだろう。
水恩は、小さな口に手を当て、クスクスと笑っている。
たったそれだけの事でも、耳や頬が熱くなってしまう。
それにしても、この力とどう向き合っていけばいいのやら。
「あはははっ、そんな深刻な顔をしなくても大丈夫よ!『住めば都』じゃないけど、慣れてしまえば悩んでいたことが馬鹿らしくなってくるわよ!!」
「……そう、かなぁ」
「うん、絶対!!」
神様に『絶対』と言われると、不思議とそうなるような気がしてきた。
肩に乗っていた重石が、ちょっとだけ軽くなる。
水恩は両手で僕の顔を包み込むと「それに――」と呟く。
「あなたが殺したわけじゃないでしょう?そりゃあ、原因の一旦はあったかもしれないけど、もとはと言えば、その人たちの日頃の行いが悪いからだし、あなたがそれに終止符を打った。そんなに気に病む必要ないじゃない!」
「で、でも、その所為で、余計な争いを――」
「下らない」
吐き捨てるような声に、僕はビクッと肩を跳ね上げる。
声の鋭さに、お母さんを少し感じたからだ。
「別にあなたが起こしたきっかけがなくても、そういった人は別の『何か』を見つけるわ。馬鹿馬鹿しい」
息が苦しくなって、思わず顔を背ける。
水恩は、僕の様子がおかしいことに気が付いたようで――。
「あら、怖がらせちゃったかしら?ごめんなさいね」
「い、いえ、大丈夫……です」
それならよかった、と水恩は笑う。
僕も、ホッと胸を撫でおろした。
「……そんな風に、誰かの一挙手一投足に気を配るのって、疲れない?それが、逃れられない、避けることにできない相手なら尚のこと」
優しい手つきで頭を撫で、耳元で囁く。
鈴の音を転がすような、綺麗な声だった。
「損だと思わない?あなたはこんなに苦しんでいるのに、争っている人たちは今も無意味で無価値な争いをしている。……でも、争いの火種を生んだ者も、煽動した者も、咎められることはない。だから、何処までも無責任で非情になれる。あなたは、こんなに苦しんでいるのに」
耳から、甘い劇薬が流れ込んでくる。
本能は『逃げろ』と警告してくるのに、足は一歩も動かない。
「自分は遥か高みにいて、適当に見つけた弱い人間を籠に入れて争わせる。どちらが生き残っても、全滅しても知ったこっちゃない。入れたのは自分だけど、争い出したのは虫の方なんだから。共存する方法もあった筈なのに、そっちに転べなかった虫共が悪い。自分は、何も悪くない……」
僕は、ぎゅうっと拳を握り締めた。
声を聞いているうちに、ふつふつと怒りが込み上げてきたから。
そうだ、すっごく損な話だ。
アイツらに比べれば、僕のしたことなんてたかが知れている。
それなのに、向こうは何も気にしていなくて、僕は――。
「…………ねっ?おかしな話でしょう?あなたは偉いわ。そうやって、自分のしたことの善し悪しについて、深く考えられるんだから。そうでない『機械』のことなんて、さっさと忘れなさい」
機械……そうだ。機械だ。
『人』を傷つけることだけをプログラムされた機械。
しかも本人たちは、プログラムされていることに気が付いていない。
考えてみれば、かなり幸せだ。
自然と「そうですね……」と呟いていた。
あんなに悩んで葛藤していた自分が、馬鹿らしくなってきた。
「うんうん!物分かりのいい子は好きよ」
よしよし、と満面の笑みの水恩に頭を撫でられる。
《別の角度から見れば、あなたも「同じ」なんだけど……》
突然、変な声が聞こえたような気がした。
きっと、気のせいだろう。
何だか、全てのモヤモヤが洗い流されていくようで、心が軽くなっていく。
懺悔室で罪を告白したら、こんな気持ちなのだろうか?
「その、Tさん?のことだって同じよ。あなたが力を使わなかったら、今頃どうなっていたと思う?嫌がらせが、自然消滅していたと思う?」
額に浮かぶ汗をハンカチで拭い、僕は考える。
僕が、虫入りの水をぶつけなかった世界。
きっとAさんがDさんを操って、新たに見つけた罵倒をTさんに浴びせていた。
『Tさんの、考えそうなことだね~』って。
前にニュースで『高校の時に酷いイジメを受け、十年経った今でもトラウマに苦しんでいる』という人の話をやっていた。
『会社に行く道中に、制服姿の高校生を見るだけで、その場から動けなくなった。……自分が通っていた高校の制服ではないのに』
『高校生数人が笑い合っているのを見るだけで無理。自分が笑われているような気持になってしまう。薬を飲んでも……治らないんです』
『たまたま、当時私をイジメていた人のSNSを見つけました。結婚して、子供も二人いて、仕事もバリバリやってて。……私は、十年前から動けないのに!』
『きっと、私のことを覚えてもいないと思います。そう考えると、凄く馬鹿馬鹿しいと感じるのに、心と体が、言うことを聞いてくれない……!』
そう言って、モザイクのかかった顔は泣いていた。
もし僕が動かなかったら、Tさんもあの人みたいになっていただろうか?
小学生の声を聞いて動けなくなったり、……もしかすると、自分が前にいた国の言葉が耳に飛び込んできただけでアウトになる可能性だって。
「あなたは、そうなる可能性を消した。それでいいじゃない」
そうだ、僕は可能性を消したんだ。
「そりゃあ、真実を知っているのが、あなたとDさんだけだから、Tさんが悲しむのは無理ないわ。……でも、その悲しみと何も起きなかった人生。どちらの方が苦しいかしら?どちらの方が辛いかしら?」
考えるまでもない。
後者の方が、ずっとずっと辛い。
「Tさんは、Aさんが黒幕だってことを知らないんでしょう?だったら、その方がいいかもしれないわよ?……知らない方が幸せなこともあるんだから」
知ったところで、もう何も言えないしね。
水恩はそう言うと、この話はお終い、とでも言うように笑う。
「あーあ、こんなに話したのは久しぶり」
「そうなんですか?」
「もっと軽い感じでいいよ!『タメ口』ってヤツで!!」
「……そう、なの?」
「そうだよぉ!だって誰も来なかったんだから!移動するにしても、今の私の力じゃそんなに遠くには行けないし。それに、神様にもテリトリーがあるからね」
「へえー、そうなんだ!」
「……あんまり知られていないのね」
ちょっとショック、と水恩は眉を下げる。
慌てて謝ると「それだけ、身近じゃなくなったってことよ」と言われた。
詳しい人なら知っているのかもしれないけれど、僕は知らない。
水恩は「神様だって、喧嘩したりするんだからね」と教えてくれた。
「お願いごとだったり、お賽銭だったり、うっかりミスをすると、大変なことになる場合もあるんだから、知っておいて損はないわよ!!」
彼女なりに、心配してくれているのだろう。
……こうして、面と向かって心配されるのなんて、いつ以来だったっけ?
最近は『心配する側』なことが多いから。
それも、『しなくてもいい心配をする側』だ。
さわさわと、木の葉が風に揺れている。
いつの間にか、辺りは赤くなっていた。
早く帰らなければ。
僕は「まだ、ここにいるの?」と水恩に聞いた。
「うん、いるよ。すぐに消滅する心配がなくなったからね」
あなたのお陰で、と微笑まれ、また顔が熱くなる。
「……あの、僕に何かできることはない?」
神様のテリトリー云々は分からないけど、行動範囲を広げられるなら広げたい。
そう伝えると、「ありがとう!」の言葉と共に「じゃあ、お言葉に甘えてもいい?」と返ってきた。
もとよりそのつもりだったので、僕はこくんと頷く。
といっても、自分のできる範囲でだけど。
「あっはははは、そんな身構えなくても大丈夫だよ!ちゃんと、あなた……人間でもできるお願いごとだから!!」
その言葉に、一先ず安堵する。
水恩は、「その辺に落ちている小枝を、十本ほど集めて」と言った。
言われるがままに小枝を拾い集め、水恩の前に持っていく。
彼女は小枝の束に右手をかざすと、反対の手の爪で、自分の手の甲を切った。
流れ出た血が、ゆっくりと小枝に染みこんでゆく。
その上に手をかざし、ブツブツと呪文のようなものを唱えだした。
すると不思議なことに、小枝が宙に浮きあがった。
そのまま、水恩の頭上で円を描くかのように回り出す。
さっきまで熱さを含んだ風しか吹いていなかった場所が、急に冷たくなった。
水恩が「両手を出して」というので、言われるがままに前に出す。
傍から見れば、水を掬って掲げているようだ。
小枝はピタリと動きを止めると、静かに僕の手の中に落ちる。
いつの間にか、小枝は赤い鉄の針のようになっていた。
手を軽く振ると、チャリンと金属音が聞こえる。
先程と違い、確かな重さを感じた。
太陽の光を反射して、キラキラ光ってとても綺麗だ。
「その針を、……うーん、そうねえ。地図って持ってる?」
「地図はないけど、代わりのものなら……」
スマホを取り出し、周辺一帯の地図を表示する。
水恩は「便利なものね!」と目を輝かせた。
「…………ここと、ここと、ここもかな」
じいっとスマホを眺めながら、目当ての場所に指をあてる。
僕の通う小学校の校庭の隅だったり、新しくできたコンビニの駐車場だったり、全ての場所を繋げると、歪で大きな円が完成した。
「今私が指した場所に、針を一本一本、置いて欲しいの」
「え、でも、掃除されたりしたら――」
「大丈夫よ!あなたにしか見えないし、触れないんだから!!」
「そ、そう……」
ホッと安心して、歪な円を見る。
どんなに自転車を飛ばしても、一日では終わりそうにない。
そう伝えると「別に構わないわよ。気が向いた時にでもやってくれれば」と言われた。
「この前の時も思ったけど、凄くアバウトなんだね」
「そうかなぁ?」
あなたが真面目なだけかもよ。
真剣な面持ちでそう言われ、思わず背筋が伸びる。
「……知り合いの神の話になるんだけど、殆どの人の子は『え?そんな事でいいの?やったー!』で終わる、って言ってたわよ」
「そ、そうなんだ」
「そう!だから、もっと肩の力を抜いて!!その年で考えすぎていると、大人になってからもたないわよ?大人の方が、人生長いんだから!!」
大人。
実感の湧かない言葉だった。
クラスメイトの殆どは、『大人になった自分』のことを考えているのに――。
僕だって、本当は考えないといけない。
でも、何故か『これ以上年を取らないんじゃないか』なんて事を考えてしまう。
そんなこと、ありっこないのに。
水恩に「またね」と手を振り、僕は家路を急いだ。
蝉の声はまだまばらだ。
もう少しすれば、喧しくて仕方がないだろう。
歩くたびに、カバンに入れた赤い針が、シャラシャラと音をたてていた。