落ちる涙
「……お友達のこと、大変だったわね」
Aさんが亡くなって四日が経ったころ、僕はお母さんにそう言われた。
別に友達ってわけじゃないんだけど。
Dさんは、Aさんの死を間近で見たショックからか、学校を休んでいる。
それは、Tさんも同様だ。
優しくしてくれていたAさんが死んだから、そのショックで学校を休んでいる。
実際は、少し違うけど。
僕はお母さん言葉を、頭の中で反芻する。
「大変」……確かに、僕の心は大変だった。
人を殺してしまった。
いや、アレはただの事故だ。
その二つが、ずぅっと頭の中をぐるぐると回っている。
土曜日か日曜日に神様の所に行って、この力を返さないと。
何だか、歯止めが利かなくなりそうで怖い。
それこそ、お母さんのように――。
×××
あれは二年前、僕が小学三年生の時の話。
お母さんが「しんどい」って言って、数日寝込んだ時があった。
僕はお父さんに「病院に行かなくていいの?」と聞いた。
すると、「はっ」って鼻で嗤われた。
「いいんだよ。毎月こうなるんだから。今回は少し長い気がするが……言ってしまえば『怠け病』だ。だから、心配なんてするな。調子に乗るから」
お父さんは「ほら、この人も動画で言ってるだろ?下のコメント欄でも、みんな苦労させられているんだ」とロベリアチューブの動画を僕に見せた。
正直、難しい言葉ばかりで、あまりよく分からなかった。
お父さんが笑顔だったから、いい動画ではあるんだろうけど。
「で、でも、こういうの鵜呑みにしちゃいけないって、学校で――」
「お前は馬鹿か?」
厳しい声で、ピシャリと言われた。
睨んでくる目が、凄く怖い。
「確かに、切り抜きやショートを見て、それが全てだと鵜呑みにする奴はいるさ?でもな、お前は俺がそうだとでも言うつもりか?」
ブンブンと首を振った。
「ちゃんと口で言え」と髪の毛を鷲掴みにされる。
「ち、違います。思いません」
「だろ?俺はちゃんと選択できる頭を持ってんだ」
「す、すみません……」
「ったく、もっと考えてからものを言え。トラブルのもとになるぞ」
そう言うと、お父さんは朝ご飯を食べだした。
僕はただただホッとした。
それはさておき、『病気』ならやっぱり、お医者さんに診てもらった方がいい。
だから次の日、僕は起きてきたお母さんに言ってしまった。
お父さんが出かけていて、厳しい顔でスマホを見ている(『何とかサン症候群』と書かれた動画を見ていた)お母さんに向かって。
「お父さんから聞いたんだけど、お母さんって、『ナマケビョウ』っていう病気なの?病気だったら、お医者さんに診てもらわな――」
最後まで言い切る前に、僕は固まってしまった。
お母さんの目が、ただの空洞に見えたから。
一筋の光もない真っ暗闇。
そこから、涙が滝のように流れ落ちてくる。
顔をくしゃくしゃにするわけでも、泣き声をあげるでもなく、無表情の顔のまま、ぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼた……。
「お、おかあ、さん……?」
暗闇が、僕の持っている『リボンスター』の箱を見る。
「…………それ、女の子向けの玩具よね?」
「う、うん。だけどね、この赤い宝石がついてるヤツ、いいなって思って」
菱形の赤い宝石のついたペンダント。
「可愛い」というより「かっこいい」と思ったから、買ってしまった。
「……でも、お目当ての物が当たるかどうかわからないでしょう?当たらなかったらどうするの?ゴミ箱に捨てるの?思っていたのと違ったら……っ!!」
急に鋭くなった声に、僕はビクッとなった。
お母さんは「……どうしてよ」と僕をどんよりと睨みつける。
「どうして、どうして、どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして……どうしてよっ!!!」
お父さんのように、リビングのテーブルを「ドンッ」と叩く。
そして、手にしていたスマホの画面を僕に見せてくる。
『女の輝きは三十過ぎてからww』
『自立した女性(笑)。今更になって後悔中!』
『若さを無駄にしたイキりの末路。マジ乙でぇーーす!!』
『もう結婚できないし、子供も産めない年齢だねぇ……w』
『デマに踊らされて焦るおばさん、マジでヤバい』
『昔の半強制的な結婚って、少子化対策だったんだな(笑)』
……読めない漢字が結構あるし、言葉の意味がわからない。
でも、「どう読むの?」なんて、言える雰囲気ではない。
「…………いいわよね。アンタは『言える側』に生まれることができて。あと十年もすれば、私よりも力が強くなるのよね。ほんっとうに!羨ましいわっ!!」
そう叫んで、僕の持っていた『リボンスター』と取り上げる。
抗議をする間もなく、『リボンスター』は床に叩きつけられてしまった。
「それなのに!ああ、それなのにっ!!どうして女の子向け欲しがるの!?女の子になりたいって言うつもり?……ふざけんじゃないわよっ!!」
パンッと乾いた音がして、遅れて右頬が熱くなる。
叩かれた、と自覚した途端、痛みがじわじわとやってきた。
「せっかく『言える側』に生まれておいて!この『贅沢病』がっ!!」
お母さんは思いっきり、床をダンッと踏む。
スリッパをはいていたので、ダフッって間抜けな感じだったけど。
「お母さんがお姉ちゃんをどんな気持ちで見てるか分かる?ずぅっと『申し訳ない』『ごめんなさい』って思ってるのよ?いとこのRちゃんが女の子を産んだ時も『可哀想に』って思いながら『おめでとう』って言ったのよ?それなのに、なんでアンタはそんなに贅沢なのっ!?」
グシャリと『リボンスター』が踏みつけられる。
パキッと音がしたから、多分中で割れてる。
「いいわよね、心を籠めて、伝わって欲しいと本気で言った言葉を『はいはい、アレか更年期(笑)』って言われることなくて。いいわよね、『子供いらない?生物の役目を放棄ですか?』って言われなくて。いいわよね、『なんだかんだ言っても、高齢出産は厳しいから、二十代後半で行く先を決めて~』って言われなくて。いいわよね、『女社会って、みんな性格悪くてドロドロしていて~』って言われなくて。いいわよね、『男でも産めるって言うなら、産みますが?』なんて言葉が吐けて。いいわよね、『あんなの、ノリで言っただけだって!気にするなんて、陰険だなぁ』で、傷口を抉るような言葉もチャラにできて。逆だったら、意味不明なほどにキレる癖にっ!!!いいわよね、望んだ子供が産まれてこなくても「お前の血が悪かったんだ。お腹にいる時に、もっとちゃんとしないから」って言うことができてっ!!いいわよね、『妊娠中はヤれないから、仕方ないだろ?性欲って本能だし……』って言うことができてっ!!その上、力も強くて、いざとなったら暴力がふるえてっ!!いいわよね、『ママ友とランチか、いいご身分だな』って、テレビを見ながら、ありもしない記憶でこっちをイジメれてっ!!!」
もう片方のスリッパで、僕の背中をバンバンと叩く。
「だいたい何よ?『幸福度が――』とか『自殺率が――』とか、こっちの数字は高いだ低いだ。どんな思いで命を絶ったのかなんて、考えもしないのね?まあ、そうよね?時代を考えずに、どうして一人でいたいと思ったのかなんて考えずに、末路だけを嘲笑うような方々ですもんね。ただ、武器にできそうだから、持ち出したってだけで!そんな人たちの道具にされて、可哀想で仕方ないわ!!……そんなに言うってことは、さぞやご立派な人生を歩まれているんでしょうねぇっ!!!」
この時の僕は、恐怖よりも驚きが勝っていた。
「『デマに踊らされてる』?『乙でぇーす』?……っはははは、お前らだって、切り抜きとかにいつも踊らされてるだろうが!他人の言葉を、さも自分が考え抜いたように言いやがってっ!!『人の気持ちを考えろ』なんて言ってるくせに、自分は相手に気持ちを考えようとしない。自分の出会ってきた人だけを全てにして、決めつける。……あーあ、ちょっと前までは、本当に癒される動画しか出てこなかったのに、最近はこんなのばかり。そんなに、お互いを蹴落とし合って楽しいの?ああでも、楽しいから、あがってきてるんだよね?それで、『少子化』だなんて、バッカみたい!!エンタメを優先した『オマツリ』の結果がコレなんじゃないの?それにも気がつ……目を逸らし続けてるのよね。傑作よ!傑作!!」
叩きつかれたのか、「ぜえぜえ」と荒い息を吐いている。
「……お前らの所為よ。お前らの動画とコメントを見ることにさえならなきゃ、私はこうして、この子を叩きはしなかった。お前らが叩かせてるんだ!お前らの蒔いた言葉が、巡り巡って不幸を生んだんだ!!お前らが悪い、お前らが悪い、お前らが悪い、私は悪くない、私は悪くない、私は悪くない……」
長い髪を両手でグシャグシャにして、ブツブツと呟いている。
意味は分からないが、理不尽で自分勝手だな、と心の片隅で思った。
お母さんだって、同じじゃないか。
一部だけ見て決めつけて、無関係な僕に暴言と暴力をふるっている。
『率』を武器に、僕を叩いている。
今の僕は、お母さんより力が弱いのに、力でねじ伏せようとしている。
『鵜呑みにしちゃいけない』
先生の言ったことは正しかった。鵜呑みにした人は、とても怖い。
叩かれた箇所が、じんわりと痛い。
よくやく恐怖心が押し寄せてきて、ずっと鼻を啜る。
その音で、お母さんは「ハッとした顔」になった。
青ざめた表情で、カタカタと震えている。
「…………あっ、ああ、わ、私、なんて事を」
僕の肩を掴み、何度も「ごめんなさい!!」と頭を下げる。
最終的には、フローリングの床に土下座をした。
どうしていいか分からず、僕は茫然とお母さんの背中を見ていた。
額を打ち付ける音が、ゴンゴンとリビングに響く。
暫くして「……お願いします」と声が聞こえてきた。
「……もし、頬や背中のことをお父さんに聞かれたら、『転んでぶつけた』って言ってください。アナタは男の子だから、お義母さんにバレたら殺されるかもしれない。……だから、だから、お願いしますっ!!」
敬語でそう話すお母さんは、さっきまでのお母さんとまるで別人だ。
そしてやっぱり、意味がよく分からなかった。
僕に対してじゃなく、僕の向こうにいる人にバレたくないから謝る。
とても悲しくて、凄く虚しくなった。
ただ、『もし(お父さんの方の)お婆ちゃんにバレたら殺される』って言うのは理解できた。何でそうなるのかは、分からないけど。
ビックリしたし怖かったけど、お母さんが死んじゃうのは嫌だ。
だから、コクンと頷いた。
お母さんはホッとした顔をして、引き出しから五千円札を出した。
「誰にも言っちゃ駄目よ……?」と五千円札を僕に握らせる。
口止め料だ。
前に、スパイものか何かのドラマで見た。
僕が再度頷くと、お母さんは「……ありがとう」と言った。
その後は、いつも通りに夕飯の準備に取りかかっていた。
そして、帰ってきたお父さんに「……今日、どうしても気分が悪くなって病院に行ったんです。そしたら、思った以上にお金がかかってしまって。それで、今月の食費をもう少し出していただけないでしょうか?」と聞いた。
案の定、頬をパンッと叩かれた。
そして「『すみません』はどうした?」と怒られていた。
「……『大丈夫か?』はないんだね。反対だったら、『気遣いはどうした!?』って目くじら立てて怒るくせに」
諦め気味の声で、お姉ちゃんは溜め息を吐く。
僕は、頬と背中のことを聞かれずにホッとしていた。
「……どうして別れないんだろう?」
「……言うのは簡単なんだけどね」
「そうなの」
「そう」
「何で、結婚なんかしたんだろう」
「……昔は優しかったんだって」
優しかった頃。
僕たちが産まれるずっと前。
その頃のお父さんに戻ってくれるのを待っているらしい。
あと、『私がいなくなったら、一人になってしまうから』だそうだ。
「健気で悲劇なヒロインを気取るのは結構だけど、私たちまで巻き込むなよな」
お姉ちゃんは苛立ち紛れに、爪で壁をトントンと叩く。
「…………もし、お父さんとお母さんが十年生まれるのが遅かったら、何か変わっていたのかな?考え方とか、ネットに対する考えとか」
「無理なんじゃない?あのお爺ちゃんとお婆ちゃんだもん。『今時の親』になんて、なれっこないよ。それに、生きてもいられないんじゃないかな?」
ストレスで胃が破裂するよ、とお姉ちゃんは笑う。
冗談めかしてはいるが、僕には冗談に聞こえなかった。
「本当、最近のロべチューブは空気読んで欲しいよね。別に発信するのは自由だけどさ。動画の住み分けって言うのをして欲しい。お陰で、知りたくない言葉まで知る羽目になるし、自分に当て嵌まってない事でも、見ていて嫌な気分になるんだから……」
こういったものは、真に届くべき人には届かない。
被害を被るのは、いつも無関係な人たち。
そこまで話すと、お姉ちゃんは俯いて「今日、学校で『将来の夢』って作文を書かされてさ。心にもないことを書いちゃった」と言った。
適当に、『パン屋さん』と書いたらしい。
たまたま隣の席の子が読んでいた本が、パン屋の話だったから。
「将来なんて、想像できないよ。お父さんとお母さんに割くエネルギーが多すぎて、将来とか、物事を楽しむとか、そう言ったのにエネルギーが回らないよ」
「………………」
「ああでも、『科学者になってタイムマシンを作る』とかでもよかったかな?それで過去に行って、お父さんとお母さんが結婚する可能性を潰すの」
「そんなことしたら、僕たち産まれないよ?」
「別にいいじゃない」
お姉ちゃんは、投げやり気味にそう言った。
そして、ジッと自分の手の平を見つめる。
「前の席の子が『手相占いやったげる』って言うから見てもらったんだけど、私、少なくとも九十までは生きるんだって。……冗談じゃないって思ったよ」
嫌よ。こんな人生、早く終わって欲しいのに。
正直、死ぬのが怖いから、生きてるってだけなのに。
「まあ、生きるも死ぬも怖いけどね」
そこまで話すと、自分の部屋へと入って行った。
僕も、お姉ちゃんのマネをして手の平を見つめる。
何処かで切ったのか、小さな切り傷を見つけた。
赤く、細い線が走っている。
意識したことはないけれど、血が流れている証拠だ。
(……あのお父さんにと、あのお母さんの血が流れてる)
イライラした気持ちを家族に容赦なくぶつける血と、一度スイッチが入ると我に返るまで容赦なく暴走する血が。
隣で溜め息を吐いていた、お姉ちゃんにも。
僕たちは、どんな大人になるんだろう?
×××
二年前のアレがあってから、お母さんは僕に対してどこかよそよそしい。
買い物だって一緒に行くし話もするけど、確かに見えない壁がある。
そりゃあ、『気にしていない』といえば、嘘になるけど。
時折、思い出したかのように僕の顔を見て、申し訳なさそうな顔をするのは勘弁してほしい。かえって居心地が悪いから。
こういうのを『腫れ物に触るよう』って言うんだろうな。
そんなことを考えながら、僕は「行ってきまーす」と家を出る。
今日もいい天気過ぎるほどいい天気だ。
熱いアスファルトの道路の上では、干からびたミミズが死んでいる。
試しに水筒の水を数滴落としてみた。
当たり前だが動かない。
土の中も地獄、外に出ても地獄。向かう先は死。
言葉にできない虚しさを感じながら、僕は学校へと向かう。
教室に入ると、隅っこで数人の女子たちが良く通る声で話をしていた。
「ええー!?『パルメザン』の三期やらないかもしれないのぉ?」
「メチャ楽しみにしてたのに……」
「確定じゃないよ。単なる噂だから」
「でも、噂にはなってるんでしょ?」
「なんで?予算の都合?それとも、監督が変わってもめてるとか?」
「ううん。……ほら、これ見てみてよ」
女子の一人が、自分のスマホを皆に見せるように差し出す。
どうやら、ニュース記事のようだ。
読み終えた女子たちから「……えっ、えぇ」と小さく声が上がる。
一人がチラリと、Aさんの机に目をやった。
そして、『これ、話を続けて大丈夫?』といった具合に目を見合わせる。
誰言うとなく『やめておこう』という空気が流れた。
「……ちょっと、話題に出すのはねぇ」
「うん。別の話にしよ」
ヒソヒソと囁きあうと、一人が「この間さ……」と話題を変えた。
少し気になったので、僕は『パルメザン アニメ 三期』と検索をかける。
微妙な空気の理由が、ようやく分かった。