安らかな時間
家に帰り、お姉ちゃんは、お父さんとお母さんの前に、札束の入った袋をドンッと置いた。今まで、育ててもらった代金だ。
驚いた二つの顔は、自分の記憶にある顔をよりも老けていた。
それだけの時間、家に帰っていなかった、ということだ。
年数にして、十五年以上。
お姉ちゃんの心に、老いたふたりに対する、憐みが浮かんだ。
子供の頃の記憶にある、『激しい空気』は纏っておらず、お姉ちゃんは、「今から、この人を糾弾するのか」と目を伏せる。
本当に、それでいいのか?
無事に会社を退職して、今は穏やかな余生を送っている。
過去のことは、水に流してあげても、いいじゃないか。
いや、許せるものか。
年取った体に、鞭を打とうっての?
それなら、私も、多感な時期に鞭を打たれた!
相手は、実の親なのよ?
私は、実の娘だった!!
相反する感情が、お姉ちゃんの頭の中で戦い合う。
そのどちらもが、本心だった。
だが、もう札束を叩きつけてしまったのだ。
覚悟を決め、お姉ちゃんは口を開く。
「……今日は、おふたりに話があって、帰ってきました」
家族なのに、こうやって敬語で話さなければならない。
そんなことを考えながら、お姉ちゃんは、言葉を発する。
今まで思っていたことを全部乗せて、「どうか、少しでもいいから分かって。心に届いて!」と念じながら、心の内を打ち明けた。
子供の頃、土下座させられて嫌だったこと。
走らされて、嫌だったこと。
自分も、今は部下を持つ立場だ。父の背負っていた重荷は分かる。
でも、だからと言って子供に当たってほしくはなかったこと。
お母さんに、庇ってほしかった。
お婆ちゃんに、弟のように気に入られたかった。
全部、全部、全部、全部……お姉ちゃんはぶちまけた。
だけど、お父さんから帰ってきた言葉は――。
「お前、本当に嫌な性格してんなぁ」
リビングが、水を打った世に静まり返る。
お姉ちゃんは、「……え?」と固まってしまった。
「そんなに嫌だったんなら、その時に言えばよかっただろうが。それを、今になってギャーギャーと、お前もう四十だろ?大の大人がみっともない……」
お父さんから吐き出される言葉に、お姉ちゃんは、「え?え?」と壊れた機械みたいに、「え?」を繰り返していた。
その時に言って、どうなるっていうの?
私は子供で、まだまだ家で過ごさないといけなかったのよ?
今になって?
ようやく、言い返せる『準備』が整ったってだけじゃない。
大の大人がみっともない?
あれだけ叫び散らしていた、アンタはどうだって言うのよ?
「というか、俺と一緒に走っている時だって、お前は、特に嫌な顔もしていなかったじゃないか」
「……だ、だって、嫌な顔をしたら、怒るじゃない」
だから、そうならないように、『普通の顔』を作っていただけだ。
「いやいや、怒るかどうかなんて分からないだろ?」
「……怒るって分かっていたから、先に手を打って――」
「はっ、それは、お前の被害妄想だ。俺はそこまで心は狭くないぞ。……はあ、せっかく育ててやったのに、父親なんて、ろくなもんじゃないな」
鼻で「はっ」と嗤われる。十五年の苦しさが、塵のように飛ばされる。
父『親』を言い訳にすんな。お前の性格が招いた結果だろうが。
言いたいことは山ほどあるのに、真っ白になった頭では、何も思いつかない。
お姉ちゃんは、「あの子だって、凄く苦しんで」と呟いた。
この世界の僕のことを、この世界のお姉ちゃんも、なんだかんだ大切に思ってくれていたようだ。
僕(息子)の死に対して、お父さんは、忌々し気に溜息を吐いた。
ビクッと、お母さんの肩がはねる。
お姉ちゃんに視線を向けて、「余計なことを言わないで。貴方はマンションに帰れるからいいけど、私は、ここが家なのよ?」と目だけで訴える。
そう、お父さんの機嫌を損ねたら、被害は家族に行く。
僕が死んで、お姉ちゃんが家を出たから、残るは――。
(……誰かの溜飲が下がると、誰かが悲しむ世の中なのよ!)
僅かの躊躇いの後、お姉ちゃんは、そう、自分を奮い立たせた。
膝の上で拳を握り締めるお姉ちゃんに、お父さんは侮蔑の目を向ける。
机を指でトントンと叩き、見せつけるような溜息を吐く。
「…………はあ、弟の死すら持ち出して、俺を追い詰めたい訳か。あいつが死んだのは、社会の荒波を乗り越えていけるだけの能力が無かったからだ」
「ああ、情けない。俺が、三十だった頃は、もっとバリバリに働いていたのに。今は、ちょっとしんどくなっただけで、泣き言を吐いて、楽な道に行きやがる」
楽な道、つまりは死。
……この世界の僕は、死んだ後にこう言われちゃうのか。
こっちがどれだけ気を遣っても、あっちにとっては、それがデフォ。
だから今、『普通』が崩れたことに、お父さんは凄く苛立っている。
いつも俯いて、「はい、はい」と答えるのが『普通』だった存在が、自分に歯向かおうとしている。
許す事なんて、できないのだろう。
「……たく、変な知識ばっかりつけやがって。はい、この話は終わりだ。そんなことより、お前は結婚して、子供産むことだけを考えろ」
ピシッ
お姉ちゃんのどこかに、大きな罅が入る。
「まだ、できないことはないだろ?世の中少子化なんだから、貢献しないとな。子供の頃、走りで鍛えてやったんだから、体は丈夫だろ?」
ピシッピシッ
お母さんは、何も言わずに、ただ黙っている。
「会社に、いい人いないのか?いないなら、婚活しろ婚活。……まあ、売れ残ったクリスマスケーキを、買う奴もいないかもしれないが、もの好きが買い取ってくれるかもしれないだろ?」
婚活……お姉ちゃんにとっては、考えてはいけないモノだった。
家庭を持つことが、恐ろしかったから。
テレビで見る『婚活の条件』は、『年収』『性格』『役割分担』……そんな言葉ばかり。みんな『暴力を振るわない』『物を投げたりしない』が当たり前。
仮に、『相手に求めることを10書いてください』と言われたときに、書かなくていいのだ。それは、『常識』だから。
でも、お姉ちゃんの場合、その『常識』に到達する前に、書くべき欄が埋まってしまう。
それは、書かなくていい、と言われても、書かないと不安になる。
だって、「欄に書いて無かっただろ?」って、殴られるかもしれないから。
そんなことを、想像する必要のない人たち。
そんな人たちが『普通な人』として、テレビで全国に流される。
僕も、それは同じだ。
水恩と出会うことがなければ、『相手』なんて、想像もできなかっただろう。
加えて、お姉ちゃんのが、家庭を持つことを恐れる理由は、もう一つある。
それは、自身の暴力性だ。
『この間、皿の洗い方がなってない、って嫁に怒られたんですよ』
『うちの子、新しいことを始める割には、すぐに飽きちゃって』
会社で、そんな話を耳にするたび、お姉ちゃんは思ってしまう。
殴り飛ばせよ、と。
甘やかすから、そんなことになるのよ。
殴って蹴って、土下座させたら、そんなことはなくなる――。
そこまで考えて、激しく自己嫌悪に陥る。
こんな発想しか、自分は出てこないんだ、って。
そんな自分が、誰かを愛して、子供を作るなんてできない。
きっと、旦那も子供も、いつか殺してしまう。
考えすぎだ。
結婚から逃げているだけ。
そう言う人も、きっといるだろう。
でも、お姉ちゃんには、もう、そうとしか考えられないのだ。
そして、そうした元凶は、大手を振って余生を送っている。
だって、結婚、家庭、子供、全てを兼ね備えているのだから。
(……なんで、なんで、この人たちは、何も言われないの?)
ピシッピシッピシッ、と嫌な音が耳元で聞こえる。
お父さんたちからしてみれば、『勝手に罅が入っただけ』の音だ。
お姉ちゃんは、機械的に、口を開いた。
「私も、精神科に通っているんですよ。…………貴方の所為で」
その言葉に、お父さんは僅かに目を見開いた。
でも、実の娘……子供を心配してのことじゃない。
ないことないことを話しやがったな、という思いからだ。
口の端を上げ、「はっ」とお父さんは鼻で嗤う。
「人に喋れるんなら、大丈夫だな」
お姉ちゃんの心が、「バリン」と音を立てて砕け散った。
それに気づかないお父さんは、変なスイッチが入ったように捲し立てる。
「昔、俺の同僚で、心が病んだ奴がいたが、そいつは、壊れる直前まで、笑顔だったぞ。周りにそんなそぶりも見せず、一人で抱え込んで」
お父さんは、「心を病むってな、そういうことなんだ」と嗤った。
お前のはファッションだ、と言わんばかりの笑み。
そうなる前に、対処をしたら、鼻で嗤われる。
でも、対処をしなかったら、お父さんの同僚のようになってしまう。
八方塞がりだったのだ。それから二時間ほど、お姉ちゃんは、持っていた小型ナイフで、お父さんとお母さんを刺し続けた。
殺すためではなく、時折やって来る『手首を切りたい衝動』のときに使う、小型ナイフ。
……お母さん、お父さんに覆いかぶさったりしなければ、死なずに済んだのに。
いや、違う。
どうして、そいつは庇うの?
自分が産んだ子供よりも、大事なの?
もう、お父さんのことも、お母さんのことも、分からないよ。
全てが終わった後、お姉ちゃんはリビングで眠った。
それは、今まで生きてきた中で、一番、心地よい眠りだった。
暖かい湯に浸かっているような、安らかな時間。
目を覚ましたお姉ちゃんは、血の付いた手で、札束をびりびりに破いた。「バカみたい、バカみたい」と呟きながら。
「…………さよなら」
誰に言ったのかは、お姉ちゃん本人にも分からない。
小型ナイフの最後の仕事は、持ち主の首を切ることだった――。




