歯が痛い
8627回目。
お姉ちゃんは、ようやく『、言い返せる世界』に辿り着いた。
バリバリに働くキャリアウーマンになって、育ててもらったお金を溜めて、それをお父さんの前に突き出した。
正直、仕事に忙殺されて、お父さんに対する気持ちなんか、薄らぎそうなものだけど。……でも、そういった考えは間違いなんだろうな。
どれだけ周囲に取り繕った笑顔を向けても、お姉ちゃんの中心にあるのは、『お父さん』という言葉。
それがあったからこそ、笑顔も仕事も続けられた。
歪んだ『愛』と『復讐心』だけが、お姉ちゃんの生きる糧だった。
恋人も友達も作らず、ただひたすらに仕事に打ち込む毎日。
追い立てられる仕事の中で、お父さんの気持ちが分かったことは数知れず。
「働くようになって、仕事の大変さは理解できた。……きっと『俺がお前くらいのときはもっと――』ってマウント取られるんだろうけど」
それでも、『まったく理解していない』のと『多少なりと理解している』の差は大きい。……お姉ちゃんは、心の中でほくそ笑んだ。
「どれだけ仕事が大変でも、私は他者に当たらない。先輩にも、同僚にも、後輩にも、…………そして、家族にも」
ざまあみろ。
私は、アンタみたいな狭量な心の持ち主とは違う。
アンタの血が混じっているのに、自分を抑えられる。
すぐにキレ散らかす、アンタと違って……っ!!
精神の成熟度では、私の方が上なんだ!
下が上に謝るのが道理なら、アンタだって道理に従うべきだ。
謝れ、詫びろ、今までしてきたこと全部!!
その為に、全てを犠牲にしてここまで来たんだっ!!!
大金の入った袋をカバンに入れ、お姉ちゃんは久しぶりに家へと帰った。
その世界線での僕は、なんとびっくり三十歳で命を絶っていた。
原因は、歯が痛いから――。
×××
『だから、お前は駄目なんだ!』
『俺が子供の頃なんかはな、お前みたいな奴は――』
ぎりぎりぎり、きりきりきり……
眠っているとき、無意識に歯を食いしばる夜が続いていた。
歯や歯茎、顎は勿論のこと、朝起きると、いつも頭が痛い。
でも、眠っている間のことだから、僕には原因が分からなかった。
不規則な生活を送っているから、と思っていた。
だから、歯が悲惨なことになっていたのに気が付かなかった。
思い切り力を入れて、無意識に歯を食いしばる。
そんな状態が何年も続くと、歯に、小さな小さな罅ができる。
歯ブラシの届きにくい、厄介な場所に。
でも、いつも綺麗に磨いているつもりだったから、気付くのが遅れた。
歯が痛くなった時には、もう手遅れだった。
虫歯が深く入り込んでしまっていた歯が数本。
そのうちの二本は、神経を取るくらい酷かった。
他の歯も、『土台』だけを残して、作り物の歯になった。
仕事があるため、土曜日の午前中にしか歯医者に行けない。
疲れた体を引きずって、時間を割いて――。
それに、歯医者もタダじゃない。
何度も通うと、それなりに金がかかる。
だが、虫歯は自力では治せない。
放っておくと、更に酷いことになってしまう。
だから、通院するしかない。
平均すると、一回、二千円弱。
……積もれば山となる。
加えて、歯やマウスピースを作るとなると、もっとだ。
払えない額ではないし、趣味も恋人もいない僕には、使い道のない金ではあった。でも、こうして財布から出て行ってしまうのは、違うような気がした。
それに、神経をとるとき、すごく痛かった。
根元ぎりぎりまで、歯を削ったときも。
麻酔がとれた後、鈍いような痛みと鋭い痛みが交互にやって来た。
なんだこれ、って思う。
ストレスさえ溜めなければ、襲われる必要はなかったのに、と。
でも、無意識に歯を食いしばってしまっているのだ。
それこそ、歯に罅が入るくらい、毎日毎日。
しかも、治療して万事解決、とはいかなかった。
無事だった歯と、作り物の歯……どうしたって、差が出てしまう。
熱いものや冷たいものを飲んだ時が顕著だ。
きりきりきり、と形容しがたい痛みが歯や歯茎を襲う。
痛みの所為で、集中力が散漫になる。
加えて、映画を観たり、外に出かけたりしていても、痛みの所為で楽しめない。薬を飲んでも、さほど効果はなかった。
強い薬を飲むと、胃が痛くなってしまう。
幾つかは医者を巡ったが、対処のしようがない。
だって、歯の治療は完了してしまっているから。
でも、それで歯ぎしりがなくなったわけじゃない。
ストレスはまた、別問題だ。
僕は、毎晩、マウスピースをはめる生活を余儀なくされた。
ただ口にはめるだけ。食いしばりを抑える力はない。
朝起きて、頭と顎が痛いのは、いつも通りだ。
眠っている間のことは分からないけど、痛みを何とかしようと、体が変な体制を取るのか、肩や首も痛い。
どれもこれもが、『ストレス』になってしまっていた。
父から放たれた言葉の上に、上乗せされるように。
『ストレスを溜めないようにしよう』という思いさえも。
本当に、全てが歯ぎしりの原因になってしまった。
だが、どれだけ薬を飲んでも、父の言葉が頭から消えることはない。
歯や神経が、戻ってくることも。
歯の治療が終わっても、メンタルクリニックがある。
僕の土曜日の午前は、まだまだ空かない。
メンタルクリニックも歯医者も、週一ではない。
けれど、時間を喰うことに変わりはない。
予約した時間にクリニックへ行って、先生と話をして、お金を払って、薬を貰いにドラッグストアの待合室に行き、お金を払って、薬を貰う。
帰りは、地下鉄に乗って帰る。
その電車賃だって、往復したら400円以上だ。
自分のための金、ということは分かっている。
でも時折、「……なんだこれ」と思ってしまう。
歯医者やメンタルクリニックに使ったお金を合わせたら、十万以上にはなる。
でも、それを払うのは、原因を作った奴じゃない。
『被害者』である、僕だ。
だって、受診するのは、個人の自由だから。
ストレスだって、歯ぎしりだって、僕の勝手。
あっちからすれば、そういうことになってしまう。
でも、それは仕方がない。
言いだしたらキリがないし、冤罪を作り放題だから。
だから、ある程度は自分の心の中に留めておくしかない。
だから、だから「理不尽だ」なんて、思ってはいけないんだ。
はあ、すり減ってギザギザになった奥歯が気持ち悪い。
ぬるい水を飲んだはずなのに、また歯が痛んだ。
ああ、明日はメンタルクリニックに行かないと。
……僕は、何のために仕事をして、金を稼いでいるんだ?
こんなになっても、お父さんもお母さんも、何も思いやしないのに。
むしろ、病んでしまった僕を「弱虫だ」と嗤うだろう。
『気の持ちようって、よく言うのにね』
『最近の若い奴は、すぐに逃げようとする』
『ああでも、こんなこと言っちゃいけないんだよな』
『そうね、今の時代は、本当に――』
疲れた。
もういっそ、記憶喪失にでもなってしまいたい。
それが無理なら――。




