水恩
次の週の日曜日。
「よっこらしょ……と」
僕は、秘密基地の入口に玄関マットを置いた。
家から少し歩いた所にある森。
役目を放棄したフェンスを乗り越えて、ニ十分ほど歩く。
すると、木や草に隠れるようにして秘密基地がある。
じわっと滴る汗を拭って、入口のカーテンをジャッと引く。
その後、クッションを枕にして、地面に敷いた暖簾にゴロンと横になる。
どちらも「センスがない」って捨てられた、可哀想な物たち。
それから、お父さんに馬鹿にされた漫画本。
色が気色悪い、と捨てられたちょうどいい箱に、十巻全部入ってる。
別に、リビングのテーブルの上に置き忘れたとかではない。
勝手に部屋に入って、勝手に読まれた。
お姉ちゃんの部屋には、流石に入っていない。
でも、同じ男だからって、僕に何も言わずに入らないで欲しい。
言ったら、「俺が養ってやっているのに――」って怒るから言わないけど。
僕がいる時だって、ずかずかと部屋に入ってくる。
それで、漫画をパラパラ捲って嗤うんだ。
「はっ、美談だな」って。「今の漫画は内容が薄い」って。
好きなものを貶されるのは嫌だ。
きっと、誰だってそうだろう。
ただ、悔しいけど、僕は頭があまりいい方じゃない。
口喧嘩になれば、負けるのは目に見えている。
政治の話に例えられたり、戦争の話に例えられたりして「そう考えると、この主人公のやっていることは――」って。
そもそも、最初から勝負になっていない。
四十七VS小五だもん。
それに、勝ててしまったらそれこそヤバい。
成人するまで、ネチネチの日々が続く。
「お前の着ている服は、食事は、この漫画本は、誰の金で買えていると思っているんだ!?」って、絶対に言われる。
実際、そうではある。
お年玉とかお小遣いとか、違いはあるけど。
でも、そのお金がもらえた原因を考えると、行きつく先はお父さん。
だから、言い返せない。
それに、お姉ちゃんみたいに罰を受けるかもしれない。
じわっと、目頭が熱くなってきた。
どうして、僕のお父さんは解像度が低いんだろう。
今まで読んだ漫画の中で、あんな人は出てこない。
出たらきっと「父親の解像度低いな」って言われるはずだ。
「こんな父親いないだろ」って。
それとも、僕が知らないってだけなのかな?
でも、もしそうだったら、それはそれでアレだな。
「早いところ医者に診てもらえ」
「さっさと別れたらいいのにね」
「家族なんだから、もっと話し合いを――」
「お互いに理解し合えば、きっと――」
そんな言葉が羅列されていそうで怖い。
だって手段があっても、実行に移せないんだから。
服に火が着いている人の映像を見ながら、あれこれ言うようなもの。
「先ずは慌てず、冷静に――」
「そんな風に払っても、火は消えないよ」
「ああ、そっちに逃げたら死ぬって」
「少し考えればわかるのに、馬鹿だなぁ」
こういうの、なんて言うんだっけ?
……ああ、そうだ。『対岸の火事』だ。
失敗した時は、もっと酷いことになるだろうし。
テレビみたいに、「ごめんな」→ハッピーエンドなんてない。
そして、僕自身「僕も悪かった」なんて言えないだろう。
だって、あっちが悪いのに、なんでってなる。
「はあ、小五でこんな事を考えるって、イタい……かな」
他のみんなは、ゲームとか『ロべチューブ』とかで盛り上がってるのに。
秘密基地に来る途中の公園で遊んでいたあの人たち、楽しそうだったな。
お父さんと砂場で、お城を作って。
「…………いいなぁ」
ぐしぐしと乱暴に目を擦り、鼻を啜る。
叶うなら、物心つく前に戻りたい。
相手の言っている言葉が、分からない年齢のままでいたい。
「そういうわけには、いかないんだろうけどさ……」
ボーッと、本の表紙を眺める。
秘密基地が完成して一ヶ月ちょい。
ベニヤ板とダンボールが主ではあるが、自分で自分を褒めてやりたいくらいの、クオリティにはなっていると思う。
「この基地に置いてある物の合計金額って、いくらなんだろう?」
全部新品だし、少なくとも五万は超えている。
だって、『見るからに安物』は相手にされないから。
きっと、「俺にはこれがお似合いだってか?」って言ってキレる。
「……はあ、秘密基地にいる時くらい、考えるのはやめよう」
落ち着く場所ではあるけれど、教室程は落ち着かない。
誰がくるか分からないし、そもそも誰かの土地だ。
今の今まで、人どころか獣にすら遭遇したことはないけど。
「もう少ししたら、暑すぎて来れないだろうしね」
ただでさえ、汗がポトリと落ちてくるのに。
「友達がいれば――」
いや、僕の趣味的にそれは難しいか。
僕の趣味が、どちらかと言うと女子寄りだから。
あっ、そういう感じ。じゃあ気を回さないと、って空気になったことがある。
それもあって、お父さんは僕にちょっかいをだす。
今時、裁縫が好き、可愛い小物が好き、ってだけで、どうしてこんな。
「……でも、結局はそうなんだよね」
別に男物が嫌いなわけじゃないし、遊ぶのは男子とだ。
ドラゴンだって、消防車だって好きだ。
それでも、ほんの少しのことで「あっ」って顔をされる。
僕はただ、どっちも好きなだけなのに――。
首だけを動かして、入口のカーテンを見る。
長過ぎるから切って縫って、それらしくした。
松の廊下みたいになったら、カッコ悪いからね。
それに、地面に擦れたら汚れるし。
余った布は、トートバッグにしてみた。
柄もお洒落だし、それこそお金を無駄にしていないのにな。
「情けない」「だから今の子は体が弱い」……そんなのばっか。
はああぁ、と大きな溜息を吐く。
「僕でこうなら、本当に悩んでいる人は、もっとしんどいんだろうな」
それとも、都会だったら普通になれたのかな。
やっぱり、一人の方が落ち着く。
でも、ふとした時に、寂しく感じてしまう。
苦しい場所か寂し場所、その二つしか居場所がない。
×××
「…………あっ、ヤバい」
いつの間にか眠ってしまっていたみたいだ。
早く帰らないと、夕飯の予定時刻に間に合わなくなる。
前に、一人ご飯は精神的に悪い、って近所のおばちゃんが言ってた。
でも、僕はそっちの方がいいな、なんて思ってしまう。
だって、バラエティー番組をブツブツ言いながら見るから。
見なきゃいいのに、何故か見る。
流行りのアイドルとかが出てきたら「こんなのがいいのか、今時は」って、小馬鹿にしたような目を僕たちに向ける。
アイドルのことはよく知らない。
お姉ちゃんも、鼻で嗤われるのが嫌だから、好きにならない。
お父さんの嫌いなものは、アイドルだろうが親戚だろうが、嫌いにならないといけない。お父さんが『黒』って言ったら、『白』も『黒』なんだ。
それでも、『毒』をかけられる。
だから夕飯は一人で食べたいけど、そう言うわけにもいかないよなぁ。
よっ、と体を起こした時、誰かの声が聞こえた。
何を言っているかは分からないけど、とても苦しそうだ。
温くなってしまった『午前中の紅茶』を持って、外に出る。
声のする方に歩いていく。心臓がドクドクとうるさい。
首を吊っている人とかがいたら、どうしよう。
それか、毒を飲んだり手首を切ったりしていたら――。
なんか、バブルって言うのがはじけた時は、この辺りでもそういう人が大勢出た、って話をお母さんから聞いたことがある。
それで、近所にある公園や神社の木は低いのが多いんだ、って。
嘘か本当かは分からないけど。
ヒュー、ヒュー、と声(といっても呻き声)が近くなってくる。
目の前の、蔦や草がこんがらがった塊を、どうにか乗り越えた。
現れたのは、青くて大きな蛇だった。
目を閉じて、苦しそうに息を吐いている。
想像していたものじゃなかったことにホッとしたけれど、これはこれで困ってしまう。やっぱり、さっきと同じで「どうしよう」ってなった。
取り敢えず、距離と取りつつ蛇を眺めまわす。
僕の知っている蛇よりも、何十倍も大きい。
テレビで見た、南米の人が首に巻いているくらいの、大きな蛇。
羊とか豚とかを、丸呑みできそうなくらいのヤツ。
でも、こんな青色の蛇もいるんだな。
空の青さを写し取ったみたいに、綺麗な「青」だ。
アオダイショウっていう蛇は知っているけど、写真で見たら「青」というより「緑」って感じだったし、南米の人が首に巻いていた蛇は黄緑っぽかった。
まあ、そこまで蛇に詳しいわけじゃないから、何とも言えないけど。
どっかの家から、脱走してきたのだろうか。
「……蛇もこんな風に息をするんだ」
あんまり息を吸う感じがイメージできていなかったけど、初めて知った。
……っと、いけない!
観察している場合じゃない!早く何とかしないと。
とはいえ、どうすればいいのだろう。
保健所か警察にでも連絡すればいいのだろうか?
「ちょっと待ってて!」
カバンからスマホを取り出したその時――。
「ま、待って……」
女の子の声が、目の前の蛇の口から飛び出してきた。
聞き間違いか、と思ったけど、そうじゃない。
爛々と光る金色の目で、「お願いがあります」と僕を見ている。
「…………な、なに?」
悲しい事に、漫画の主人公のように堂々とはできなかった。
「水が欲しいんです」
「水?」
「はい。喉が渇いて死にそうなんです。……水をくれたら、貴方に水を操る力を授けましょう」
『力を授けましょう』……その言葉に、心がウズッとなる。
『水の力』っていうワードにも、興味をそそられた。
「でも今、水は持ってないんだ。午前中の紅茶『レモン』だけで」
「そ、それでも、かまいません……」
目の前の蛇は「重ねてですが、もう一つお願いがあります」と言った。
ふたを開けようとしていた手を止め「なん、ですか?」と聞く。
「私の名前は『水恩』と言います。ペットボトルを掲げて、私の名前を三度、心の中で呼んでください」
僕は言われるがまま、ペットボトルを掲げた。