数滴の水を自在に操る力
コルクの栓をされた、透明な瓶。
乾いた底に、水滴がぽとっと落ちる。
「どう?」
「………………すごしょぼい」
僕は目の前にいる神様に向かって、ポツリと言った。
青い蛇の神様は、ガクッと肩を落とす。
「し、仕方がないでしょ。コレが限界なんだから」
「す、すみません」
「じゃあ、今からこの力を、貴方に授けましょう」
僕の手の平が、一瞬だけピカッと光った。
数滴の水を自在に操る力。
それが、僕に与えられた力だった。
「まさか、こんな事になるなんて……」
一週間前までは、夢にも思っていなかった――。
×××
「おい、玄関マットを買ってこい」
不機嫌そうな、お父さんの声が聞こえる。
さっきまでは、どちらかと言うと普通だったのに。
「……えっと、どんな柄だったらいい?」
「使えたらなんでもいい!今日の夕方までに買っておけ!!」
おどおどと、小動物のようにお母さんはお父さんを見上げる。
そんなお母さんに、スリッパと怒鳴り声が飛ぶ。
僕は壁にかけられた時計を見る。
今日は日曜日で、今は十一時をすぎたところ。
これからお父さんはチロの散歩に行って、お昼の十二時半にご飯。
その後、二時間読書をして二時間パソコン。
十七時くらいにお姉ちゃんが帰ってきて、そこから二人でランニングだ。
やることが目白押し。
少しでもズレたら、※放送禁止用語※みたいにキレる。
早い話、お昼が終わったら十七時まで家にいるのだ。
嫌だな。
毎週の決まった『日常』だけど、すっごく嫌だ。
「僕も行っていい?」
お母さんに負けないくらいのおどおどで、僕は言った。
正直、『今日の予定』に僕の存在は邪魔だ。
邪魔者はいない方がいいだろう。
それに、僕も一緒にいたくない。
前に、トイレの扉を閉めただけで怒られたことがあったから。
『おい!もっと静かにできないのか!?せっかく話に入り込めていたのに』
……って。
扉一つ閉めるのにも気を遣う『我が家』。
僕にとっては、学校の方が落ち着く場所だ。
Y小学校の『5-2』の教室。
そこでボケーっとしている方が、僕は家にいるよりも好きだ。
さて、たぶん大丈夫だとは思うけど――。
案の定、お父さん「それがいいな」って言った。
僕を見て「いい天気なんだ。家に籠るなんてもったいない」だってさ。
×××
お母さんと二人、駅までの道をてくてく歩く。
やっと、ちゃんと息が吸えるなって思った。
僕の住んでいる家の周りは、家よりも木が多いのに。
古墳があって、大小様々な池があって、広い公園もある。
二階からは大きな湖が見えるし、空気もいい筈なのに。
それなのに、息苦しい。
花火の煙を吸ってしまった時とはまた違う息苦しさ。
真綿で、じわじわと首を絞められているような――。
心の底から、チロの散歩に同行しろって言われなくて良かったと思う。
時折、お父さんの気まぐれで散歩に誘われる時がある。
僕だけの時もあれば、お姉ちゃんもいる時もある。
でも、数の多さなんて関係なく、僕は散歩に付き合うのが嫌だった。
だってお父さん、チロのこと蹴るんだもん。
×××
僕は犬についてあまり詳しくない。
ただ、チロが落ち着きのない犬だってことは分かる。
噛んだりはしないけど、自分の行きたい所にグイグイと進んでしまう。
お父さんは、それを凄く嫌う。
散歩コースにも、お父さんなりのこだわりがあるからだ。
自分の予定を狂わせるものは、誰であろうと許さない。
だからこの間、リードが引っ張られた瞬間、チロを蹴った。
「ギャイン」って鳴いたチロに「大袈裟だな!」と怒鳴った。
「お前は何度同じことを繰り返せば気が済むんだ!」
自転車に乗ったおばあちゃんが、批難がましい視線を向けて通り過ぎる。
同行させられていた僕は、ビクビクしていることしかできなかった。
ビクビクしながら、周囲をきょろきょろと見まわした。
前に、犬を蹴っている人の炎上ニュースを見たことがあったから。
もしもスマホで撮影されていたらどうしようって。
お父さんは勿論の事、僕だって批難されるだろう。
「何で止めなかったんだ」「虐待でしょ?」……そんな言葉が浮かぶ。
学校で習った。『いじめを黙認していた者も同罪』だって。
それなら、今の僕も同じだ。
「やめてよ」「酷いよ」って言葉が、言えないのだから。
そもそも、言って通じる相手ではない。
一回でも、言葉にできたお姉ちゃんは凄いと思う。
でも、意味なんてなかった。
「そういうの、虐待になるからやめてよ」
桜が空を舞っている中、お姉ちゃんはそう言った。
その時、たまたまお花見の集団が通りかかった。
お父さんはそれを見て「はは、わかったよ」って笑った。
そして家に帰った後、玄関の扉が閉まった瞬間に鬼の形相になった。
リードを鞭みたいに壁にバンッて叩きつけて――。
「親に向かってなんだあの態度はっ!!?」
お母さんは視線を逸らし、僕はそそくさと階段を登って部屋に入った。
窓から庭を見ると、犬小屋でチロが小さくなっている。
「ったく、最近はすぐに虐待虐待だっ!」
「じゃあ何か?あのままチロが道路に飛び出したらよかったのか?」
「それで撥ねられたら、お前責任とれるのか?ああ!?」
「何度やってもああだから、俺が頑張って躾けてやっているんだ!!」
「躾ってのはな、アレぐらいやってなんぼなんだよ!!」
「それをお前は、偉そうに――」
お姉ちゃんが泣いて土下座するまで、お父さんは許さなかった。
そして今でも「ああ、これは今はダメなんだよなぁ」って言う時がある。
そして、お姉ちゃんの「ごめんなさい」を待つ。
それを見ているから、僕は何も言えない。
でも、そんなの他の人は知らないから、絶対に何か言われる。
家族は何してたんだよ、なんて知らない人に言われたくない。
だって怖いんだから、仕方がないじゃないか!
言って終わりじゃない。その先だってあるんだ!!
主人の機嫌を損ねたら、僕もお姉ちゃんみたいに――。
そんな風に、自分のことしか考えていない事にも嫌気がさす。
だから僕は、散歩が嫌いだ。
×××
ガタンゴトンと電車が揺れている。
これに揺られ、五駅先の『シャインモール』に行かなくちゃ。
近くの店にも、玄関マットは売っている。
でも、お父さんの『好み』そうなものはない。
今頃、どの辺りを散歩しているんだろう。
きっと、チロと自分だけの時は、大人しく散歩するんだろうな。
そういう人だから。
身内が近くにいれば、気が大きくなるタイプの人間だから。
そう、身内が近くにいれば――。
お寺の掲示板に貼られた格言みたいなのを見て「綺麗ごとだ」って鼻で嗤う。
それも、わざと聞こえるようにハキハキと大声で。
遊園地に連れて行ってもらった時もそうだ。
「今は節電の時代なのにな」って、やっぱり大声で言う。
ぶっちゃけ、家族で行きたい所なんてない。
でも、あっちは『家族サービス』をしたがる。
そして、連れて行かれた先で嫌な気持ちになるんだ。
絶対に、なにか起こるから。
それに、「あの時、連れて行ったやっただろ?」って言ってくる。
こんなにやってやってるのに、って。
そう思うなら、連れて行ってくれなくていい。
僕だって、渋滞でイライラしませんように、って祈らなくていいんだから。
煽り運転も自覚なしにやるし、やめてって言えないし。
僕たちの気遣いは『普通』だと思っているし。
でも、それを話したらどうなるか――。
ああ、早く大人になって『縁』を切りたいな。
そういえば一回だけ、チロが雷に驚いて迷子になってしまったことがあった。
みんなで一生懸命探したが、見つからない。
疲れた顔をしたお父さんは、何度も予備のリードで犬小屋を叩いた。
「裏切り者」「こんなに大切にしてやったのに!」そう言って。
玄関に飾っていた、子犬の頃の写真も破いて捨てていた。
言わずもがな、家の空気は最悪だった。
僕は「なに余計なことしてんだよ」とチロを恨んだ。
見つかった時も、心配よりも憎悪が勝った。
蹴り飛ばされることはなかったが、態度で察したのだろう。
一週間ほど、チロはずっとビクビクしていた。
「それでも、チロはお父さんに一番シッポを振るんだよなぁ……」
「『買われた恩』って言うのかしらね。ああいうの」
心の中で言ったつもりが、声に出していたらしい。
隣に座るお母さんを見ると、疲れた顔で溜め息を吐いていた。
一目惚れ……そんな理由で三年前に買ってきた犬。
それまでは、誰かから貰うのが常だった父が、初めて買った犬。
『この売れ残ったのはどうなるんだろうな?殺処分か?』
シャインモールのペットショップで、大声であんな事を言っていたのに。
店員さんが色々と説明していたけれど、聞く耳を持ってはいなかった。
だって、お父さんの中では答えが決まっているから。
ああ、思い出したくない!
僕はブンブンと心の中で頭を振った。
「まあ、お父さんの機嫌がいい時は、すっごく可愛がってもらえるからね」
おやつだって貰えるし、頭だって撫でてもらえる。
それで叩いたことがチャラになっていると、お父さんは思っている筈だ。
切り替えれない気持ちのまま、僕は窓の外を見る。
シャインモールが見えてきた。
はあ、お金が無駄になるって分かる買い物は嫌だな。
どうせ、何処で買っても無駄になるんだし。
×××
「なんだ?このセンスのない玄関マットは?」
「で、でも、どんな柄でもいいって――」
「限度ってもんがあるだろうがっ!ったく、口だけは達者だな、お前は」
「す、すみません……」
ほら、無駄になった。
ちなみに、僕が選んだ柄だったんだけどね。
この後の流れは分かっている。
「情けない。買い物一つできないのか」って、物置にポイだ。
カーテンだって、スリッパだって無駄になった。
でも、そこまでが『流れ』だ。
お母さんでも、僕でも、お姉ちゃんでも、結果は同じ。
『下に見ている者が買った物を貶す』……それまでがセット。
僕だって、お小遣いをためて買った物を、何度も馬鹿にされた。
「今時のデザインは――」そんな言葉と共に。
だから隠す。隠そうとしてしまう。
それは他の二人も同じだ。
でも、バレた時が大変だ。
「俺に隠れてコソコソとっ!!」ってキレるから。
あっちが貶してこなかったら、隠しはしないのにね。
それか、こっちも馬鹿にしていいなら、全然いいのに。
でも、逆はダメなんだ。
同じことをされたら、※放送禁止用語※になる。
だから更に隠す。その繰り返し。
家族なのに、不思議だよね。
ただ、コレが普通だと思っていた時はまだ良かった。
クラスのみんな、こんな感じなんだろうなって思えていた時は。
僕だけじゃないんだ、と思えていた時は――。
「はあ……、俺の稼いだ金を無駄に使いやがってっ!!」
あっ、マッハで物置に入れられた。
いつもは数日は買った物を眺めながら、グチグチと文句を言うのに。
そして、お父さんが改めて、自分の好みの物を買って来る。
明日はきっと出かける前に「マットがないと嫌だな」って言う。
お前がちゃんと買っておけば、朝から嫌な気分にならなかったのに、て。
自分で買いに行ったらいいのに。
まあそう言ったら「俺は忙しいから」で終わる。
それは分かるけど、それなら文句を言わないで欲しい。
お金だって、余計にかかるし。
まあいいや。全部見越して選んだんだから。
白と黒の葉っぱの描かれた、シンプルなデザイン。
来週は、あの玄関マットを持って秘密基地へと行こう。
貶し終えた物を綺麗に忘れてくれるのは、唯一の有難いところだ。
これで、秘密基地がより一層、豪華になる。
カーテンだってスリッパだって、すっかり秘密基地の住人だ。
そんなことを考えていたら、お姉ちゃんが息を切らして帰ってきた。
時刻は、十六時四十五分。
これから着替えて、お父さんとランニングだ。
あの時、逆らった罰の。
勿論、お父さんはそう思ってはいない。
お前は少し運動不足だから、それを理由にしている。
そう言われると、なかなか言い返しにくい。
いや、『言い返す』何て選択肢を、持ってはいけない。
お父さんは趣味と実益を兼ねているからいいけど。
お姉ちゃんは、僕と同じでインドアだ。
中学の友達との遊びを早めに切り上げて、走りにいく。
時間帯的に、見たい番組もあるだろうに。
でも、一番に優先すべきはお父さんだ。
友達と違って、ずっと関わっていかないといけない相手なんだから。
だから、「走るのが遅い」「ふざけてんのか」って言われても耐える。
泣いたら「メソメソするな」って叱られるから泣けない。
反抗期って言うのもないのに、親戚の前ではお父さんから「最近、反抗期に入ったみたいで困る」って笑われる。
僕たち、何が楽しくて生きているんだろう。
神様にお願いしてみたけど、全然効果はなかった。
この辺りの思いつく限りの場所は、全て回ったのに。
それとも、金額が関係しているのかな。
はあ、秘密基地の近くに、まだ行っていない場所はあったかな?
初めまして、砥草と申します。
不定期更新となってしまいますが、どうぞよろしくお願いいたします。