仁義なき当主代理戦争〜「あ、その件はもう決着がついております」〜
エリツィーニ女侯爵が病に倒れ、亡くなったという噂が社交界に出回るのとほぼ同時。王都のエリツィーニ侯爵邸には二組の家族が押しかけ、睨み合っていた。
片や、エリツィーニ侯爵の夫で婿養子のロナルド・エリツィーニとその愛人、愛人の連れ子マリカ。ちなみに、ロナルドとマリカは表向き血の繋がりはないことになっているが、それを容易く覆すほどよく似ている。
片や、エリツィーニ女侯爵の実弟であるイニス男爵とその妻、そして息子のジョージ。イニス男爵は他家の婿になれず、また自ら業績を上げて爵位を得ることもできなかったため、父である前侯爵に泣きついて男爵位を得た。
ロナルドと侯爵の間には、娘が一人いる。名をカサンドラ・エリツィーニといい、年は16歳だ。この国の成人年齢は18歳で、侯爵家当主になるには余程の事情がない限り成人を待たねばならない。すなわち、カサンドラが成人になるまでの2年間、“当主代理”となる人物が必要である。
ここまで読めば、後は察しの通り。
ロナルドとイニス男爵は、その地位を巡って既に冷戦状態に入っている。顔を合わせたはじめこそ、薄ら寒い社交辞令を交わしていたが、直に話題は尽きた。双方の家族も口汚く罵り合ってはいないものの、そこらの破落戸も真っ青な殺意のこもった視線の応酬をしている。
本格的に開戦とならないのは、肝心のカサンドラが不在だからだ。曲がりなりにも次期当主となると目されている彼女から頼まれなければ、“当主代理”として自由に振る舞うことはできない。どちらの陣営も一歩も譲る気はなく、場の空気はきりきりと冷えていく。にもかかわらず、当のカサンドラは外出先から帰ってこない。しびれを切らしたロナルドが家令にたずねても、「お嬢様が帰宅される予定時刻は、もうしばらく後になります」と慇懃無礼に返されるだけ。自分が当主代理になった暁には、クビにしてやると内心息巻いていた時。
「なあ、そこの……マリカだっけ」
徐に、ジョージが口を開く。その気安い口調に、マリカの柳眉がはね上がった。
「男爵の息子風情が、侯爵令嬢になる私を呼び捨てにしないで!」
すかさず噛み付いたマリカに、ジョージは鷹揚に──もとい、下心と蔑みのこもった笑いを向ける。気持ち悪い視線にマリカが激高する前に、ジョージはとんでもないことを言い出した。
「喜べ、お前を俺の愛人にしてやる」
「「「は?」」」
疑問形でありながらドスのきいた声で反応したのは、ロナルド一家だ。イニス男爵夫妻は声こそあげなかったものの、訝しげにジョージを窺う。
「ジョージ、急に何を言い出すの? こんな平民、関わっていると知れたら恥だわ」
イニス男爵夫人の言葉に、ジョージは得意げに語り出した。いちいち動作が気障ったらしく、鼻につく。
「父上が当主代理となったあと、俺はカサンドラと婚約して次期当主となるでしょう? ですがあの可愛げのない、つまらない女に縛られるのはごめんだ。そこで息抜きも兼ねて、そこの顔だけは良い平民を愛人にするんです。おいマリカ、俺の愛人になるなら、それなりの生活をさせてやってもいいぞ。せいぜい俺に尽くせよ」
「ふざけんじゃないわよ! そもそも、当主代理になるのはお父様なんだから、あんたの出る幕なんてないわ! あんたなんか、不敬罪で牢屋に送ってやる!」
もはや場は、十二分にあたたまった。建前上の主役を待つことなく、開戦の火蓋が切られようとしたその瞬間──。
「あら、おそろいですのね」
首を長くして待ち望んでいたカサンドラが、ようやく現れた。その呑気とも言える第一声に一同は怒鳴りつけたくなったが、まずは彼女の信任を得て“当主代理”に任命されなければ元も子もない。なけなしの理性で、両家は罵声を抑え込む。
「それで、ご用件は?」
控えていた使用人に、何故か空席となっていた最も上座をすすめられたカサンドラは、当たり前に着席した。その手元には、ロナルド一家にもイニス男爵家にも供されなかった紅茶と菓子がさり気なく用意されている。
「「カサンドラ、当主代理の件で」」
ロナルドとイニス男爵が異口同音に話し出した。どちらもカサンドラの母である女侯爵が亡くなったという噂を聞き押しかけているのに、カサンドラを気にかける言葉もない。空気に徹している使用人たちは、内心顔をしかめる。カサンドラはそんな恥さらしな身内二人に眉一つ動かさず、途中で遮った。
「あ、その件はもう決着がついております」
「「は?」」
「当主代理は不要です。わたくしが、お母様の跡を継いで当主となりますので」
「「はあ!?」」
一番はじめに衝撃から立ち直ったのは、この中では比較的カサンドラと関わることの多かったロナルドだった。
「な、何を言っているんだカサンドラ! お前は、まだ未成年だろう?」
「ええ、まだ成人してはおりませんが条件を満たしましたので」
「条件?」
カサンドラが視線をやると、心得た家令がさっと書類をテーブルに広げた。王国印の入ったそれが、国に認められた正式な書類であることは子供でも分かる。そこには、カサンドラ・エリツィーニが“貴族学院を飛び級かつ特に優秀な成績で卒業したこと”、“侯爵の許可を得て権限の一部を譲渡され、数年間領地を円滑に治めたこと”の2点を以て侯爵位を襲爵することを認める旨が記載されていた。イニス男爵は破かんばかりの勢いで書類を手に取り、粗でも探すように読み込むが当然そんなものはない。
「ご理解いただけまして?」
貴族らしい笑みをたたえ、カサンドラが告げる。常識的な思考を持つ人間なら、ここで話は終わりと引き下がる所だが。
「カサンドラ!」
急に大声を出したジョージは、カサンドラの前に跪こうとしたが付近の使用人に速やかに元の位置に戻された。カサンドラは愛想笑いのまま、ただし視線は冷ややかにジョージを見返す。
「何でしょう?」
「結婚しよう!」
「お断りします」
またしても突拍子もない申し出であるが、カサンドラの淑女の笑みは崩れなかった。不快げな顔つきにならなかったことに勝機を見出だしたジョージは、なおも言い募る。
「素直になってくれ、俺と君の仲じゃないか!」
「単なる従兄妹、それ以上でもそれ以下でもないですね」
息子の狙いを理解したイニス男爵夫妻も、慌てて加勢に入った。何せ、当てにしていた“当主代理”の座が無と帰した今、頼みの綱はジョージとカサンドラの結婚しかない。
「考え直してカサンドラ、従兄のジョージと結婚すれば安心だわ!」
「そうだな、我がイニス男爵家も新侯爵であるカサンドラを手助けできるし!」
意気揚々と利点を並べ立てる男爵一家を、やはり微笑んだままカサンドラは一蹴した。
「不要です。わたくしには婚約者がおりますので」
「え!?」
素っ頓狂な声を上げたのは、ロナルドだ。
「そ、そんな話、父である私は聞いてないぞ!?」
「ようやく最近、正式に決定しましたの。お父様に知らせようにも、長らく不在でしたのでお伝えする機会がありませんでした。とある伯爵家の次男です。候補は彼以外に何人かいましたが、どこぞの方のように婿でありながら愛人を囲うような下劣な真似をしないか、慎重に検討していたので」
明らかにロナルドを揶揄していたが、それに吹き出したり追従できるような余裕のあるものはいなかった。
衝撃も冷めやらぬうちに、更にカサンドラは畳み掛ける。
「それに、結婚する前に他の方に愛人になるよう持ちかける方は論外です」
ちら、とマリカを見ながら薄く笑うカサンドラに、ジョージは青ざめた。
「な!? さっきの話、聞いていたのか!?」
「ええ、皆様がどんなご様子か、逐一伝えるよう使用人に命じておりましたので」
先程のやり取りを、完全に壁と一体化しているずらりと並んだ使用人の誰かが、カサンドラの耳にいれたらしい。誰が出入りしたのか、全く記憶になかった。普段は気にかけることのない使用人一人一人を食い入るように見つめるジョージだが、彼らは顔色一つ変えない。諦め悪く、打開策をと汗をかくジョージをよそに、カサンドラは明日の予定でも告げるように宣告した。
「ああそうそう、イニス男爵家は取り潰しです」
「何だと!?」
「どうして!?」
思わず声を上げたイニス男爵夫妻に、カサンドラは淡々と説明する。
「領地経営も下手な上に散財し、足りなければ横領し、挙げ句領民に無体を働こうとする領主一家など、不要以外の何物でもありません」
「なぜ、知って」
「私が襲爵を認められた条件に、“侯爵の許可を得て権限の一部を譲渡され、数年間領地を円滑に治めたこと”があったでしょう。その一環で、イニス男爵家の領地について調査いたしました。この数年間、やけに代官が優秀で財布の紐が固かったのでは? わたくしが派遣しましたの」
カサンドラの発言に、イニス男爵一家の顔色は蒼白になっていた。カサンドラは穏やかに、だが追及の手は緩めない。
「不正の証拠を警邏に提出すれば、爵位剥奪どころではないでしょう? これは情けとご理解いただけましたか?」
男爵一家は完全に沈黙し、カサンドラの命を受けた使用人に促され立ち去った。彼らがいなくなるのと同時に、これでもかと媚を含んだ声がかけられる。
「お姉様!」
マリカは胸の前で両手を組み、大きな瞳を潤ませた。可愛らしい、何でも言うことを聞きたくなる、と男性たちから評判の仕草だ。カサンドラは一瞥してから、何事もなかったかのように紅茶を口に含んだ。マリカは首を傾げる。聞こえていないはずはない。だが、一向にカサンドラから返事がない。
「ちょっと、聞いて……ますの!? おね」
「わたくしに、妹はおりません」
やっと返ってきた言葉に感情の色はなく、またマリカを認めないことをしっかりと表明していた。マリカのこめかみに青筋が立つ。マリカが怒鳴る前に、ロナルドが割って入った。
「待ってくれ、カサンドラ! マリカは、本当にお前の妹だ!」
「そうなの! 今まで色々あって名乗れなかったけど、これからよろしく」
「いえ、結構です」
「そうへそを曲げるんじゃない! 父からの頼みだカサンドラ! ほら、家を継ぐなら父の協力も必要だろう? 義理だが、母親だっていた方がいい!」
「そ、そうよカサンドラさん! 侯爵として忙しい貴女の代わりに、私が継母として」
「不要です。お父様は、法的にわたくしの父ではなくなるので、マリカさんもわたくしの妹にはなりませんし、愛人の方も赤の他人のままです」
「「「は?」」」
一斉に唖然としたロナルド一家に、カサンドラの意を汲んだ使用人が書類をテーブルに置く。
「こちら、離婚届です。お父様──ロナルド殿、こちらに署名を」
淡々と指示するカサンドラが一貫して冷静な一方、ロナルドは想定外の連続で頭が回らない。ロナルドは冷や汗をかきながら、驚きすぎて逆に半笑いになった。
「か、カサンドラ、母親が死んで疲れてるんだな? 片方が死んでいるのに、離婚も何も」
「母は生きておりますよ」
「「「え?」」」
今度こそ二の句の注げなくなったロナルド一家に、カサンドラは頬に手を当てる。あらわたくしったら、うっかりしていたわと言わんばかりに。
「持病の悪化があり、わたくしに爵位を譲って領地で本格的に静養なさることになりましたの。その時、ほんの手違いで、少々ねじ曲がった噂が流れたかもしれませんね。噂が耳に入った方には、否定のお手紙を送りましたが──噂を聞きつけて即座に我が家に向かわれたのなら、行き違いになったのかもしれません」
「かっカサンドラ、お前」
「ともあれ、離婚届に記入を。元々この婚姻は、ロナルド殿のご実家とうちの事業提携のための政略です。結婚して十数年、事業も軌道に乗り最早離婚ひとつで小揺るぎもしないことは、両家に確認済みです」
「だっだが、お前の母親は、私を愛していたのだろう!? だから、政略と銘打って強引に」
「いいえ。事業提携のためです。でなければ、当主の補佐もろくにできない、せめてもと任せた仕事もしない、しかも穀潰しの分際で愛人を作って無駄に金を消費するしか能のない男、夫のままにしておく理由はないとは思いませんか? 母は、わたくしという跡継ぎを授かれたことに免じて、大人しく離婚するなら慰謝料は不問にするとのことです。それに、貴方にとっても本望でしょう? これからは、常々声高に触れ回っていた真実の愛の相手である愛人の方と、大手を振って愛し合えますよ?」
さあ署名を、と迫るカサンドラに、ロナルドは震える手で署名した。なぜかひどく意気消沈したロナルドと、侯爵夫人は私であるはずなのにと叫ぶ愛人、お姉様話を聞いてと性懲りもなく縋りつく自称妹を使用人に命じて追い払わせる。彼らがこの先どうなるかなど、最早カサンドラには関係ない。仮に面倒事を起こして火の粉を振りかけてくるなら、侯爵家の権力を以て叩き潰すまでだ。
カサンドラが命じるより先に、侍女が程よい温度の紅茶を淹れ直した。その豊かな香りを楽しみながら、カサンドラは首をひねる。
「不思議よね。ろくに顔を見せないし仕事もしない婿養子と、無能と評判の親しくもない親戚が、どうして跡継ぎであるわたくしが掌握している侯爵家を、どうこうできると思えるのかしら」
側に控える家令が、僭越ながらと口を開く。
「私共にも、生憎と理解が及びません。しかしながら、お嬢様──侯爵家の領地は広大。あのような考えを持つ者も、一定数いるのかもしれません」
「なるほど、理解できないからと理解を拒めば、足を掬われるかもしれないと。忠告、受け取ったわ」
恭しく一礼した家令を下がらせて、カサンドラは微笑んだ。貴族らしい笑みではない、心からの微笑みだ。
「ふふ、来年か再来年には、弟か妹ができてるかもね」
母には想い人がいた。あの婿養子のカスではない。侯爵家に出入りする医者の弟子で、体の弱い母に幼い頃から献身的に寄り添っていた男性だ。彼は長じて母の主治医となったが、身分は平民である。侯爵家を継いだ優秀な母でも、流石に初婚で彼と結ばれるのは難しかった。しかし、政略結婚しカサンドラという跡取りが育った今、彼女らの再婚に否を唱える者はいない。いたとしても、カサンドラが排除する。政略結婚の末にできたカサンドラを、母は元より母の想い人も立場を弁えた上で育ててくれた。いつも家にいない父親の存在など、軽く霞むくらい、大切に。本日の外出も、母を領地へ送っていった帰りだった。これから侯爵としてエリツィーニ家を背負って立つカサンドラを、誇りに思いつつ心から案じてくれている二人のためなら、カサンドラは何だってするつもりだ。
数年後。夫と共に侯爵家をもり立てながら、自身の子と、年の離れた弟妹をまとめて可愛がり、幸せそうに微笑むカサンドラの姿があった。
誤字報告等、ありがとうございます。
カサンドラの婚約者視点の話『とある平凡だった男が捧げる“真実の愛”』を投稿しました。