8.パン工房で、のんびり人生計画(2)
ハンガーのことを『衣紋掛け』というひとがいる。あんた武家か。
「お帰りなさい。ふたりとも薪拾いご苦労様。もうすぐ夕飯になるから手と足を洗っていらっしゃい。」
明るい笑顔で迎えてくれたお母さんに、僕とエルは顔を見合わせてにっこりしてから、「はあい」と返事して井戸に向かった。
エルの話を思い出して井戸を覗くと清水が流れていた。
「これドナ川から流れてきてるんだよね?」
「そうだよ。森の中から流れてきてるから生水でも飲めるんだってお母さんが言ってた。」
ここは本当に快適な街だな。
僕の『のんびり人生計画』はこの家で暮らし続けるだけで実現しそうだ。
お父さんもお母さんも、とびきり優しいし、エルなんか絶対に将来は嫁にやりたくないと思ってしまうほど可愛くて純真で、なんといっても僕の素性を知っているのに僕のことをいつも気遣ってくれている。
なんだかこの家は幸せの予感しかしないよ。
足と手を拭いたら、なんとなくエルの手を取りたくなって差し出した。幸せすぎて。
エルは「ええっ」とちょっと間の抜けたような驚いた声を出したけど、逆らうことなく一緒に家の中に入った。
家の中に入ると、お父さんとお母さんがポカンと口を開けてこっちを見ていた。
「ほらこういうことになるんだから。」
と困ったような笑顔でエルが耳元でささやいた。
「おやおや、王子様とお姫様は仲がよろしいですわね。」
お母さんが思いっきり冷やかしてきた。
たぶん元のテムリオが、こんなことしたことは一度もなかったんだろう。
ちょっとハイテンションになりすぎたと気がついたときは、「どうするのよこの手」と、振り払うでもなく、まるで困った弟を見つめるお姉さん顔のエルがいた。
僕は、右手を胸元に当てて軽く一礼した後、軽く握ったエルの手を引いて椅子の所まで案内した。
そして椅子を引いて、「エルシェ姫、どうぞおかけください」と演技した。
一瞬うっとり夢心地の顔をしたエルが、僕のお遊びにおつきあいして「テムリオ殿下ありがとうございます」と反対の手でスカートの裾を軽く握って、思いがけず上品なカーテシーで挨拶を行い椅子に腰掛けた。
まさか、絵本のお姫様の真似……?
「えっ、どうしてそんなに上手なご挨拶ができるの?」
お母さんが、結構大げさに驚いた。まあ確かにそれなりに様になっていたけど。
「内緒!」
エルはそう言うと、どうでもいいでしょと言いたそうな顔で、「おなかすいたよー」と、エルシェ姫からいつもの平民のエルに戻ってお母さんにおねだりをはじめた。
お姉さんぽくなったり、幼女っぽくなったり忙しい。
お母さんは我に返った顔で、あわてて夕飯をテーブルにそろえ、下町の庶民の食卓は賑やかな笑い声に包まれた。
話に夢中になっていたらキッチンのほうから「ブォン」という不思議な音が。お母さんが慌てて立ち上がった。
覗いてみると何やら異世界らしい機器がキッチンにあって、相変わらず「ブォンブォン」と小さな音を立てていた。なにこれ。生き物?
「あらあら、また魔玉オーブンが。食後のベイクドケーキ台無し。やっぱり魔道具屋のベンジャさんに来てもらわないと。」
魔玉オーブン? オーブンにはとても見えないけど。
まさか魔法でお菓子作ってたとか?
不思議な丸い玉は「ブォンブォン」と変な音をたてながら跳ねていて、お母さんが押さえたら、ちょっと焦げ臭いケーキが出てきた。
異世界だ………、まるで都会から田舎に引っ越してきただけみたいな感覚になりかけていたけど、確かに異世界だと再確認させられた。
夕食どころじゃなくなったようで、「あらあら」と似たもの親子のお母さんとエルが、同じ口調でキッチンを片付け始めた。
テーブルの片付けを手伝いながら僕はお父さんにエルから聞いていた「魔物」について聞いてみた。
「お父さん、『魔物』って領土の近くにもいるの?」
すると根っから話し好きみたいなお父さんが、話に乗ってきた。
「前に同じ話をしたことがあったけど、テムリオは、何度でも聞きたがるんだな。
確かに領界の森の近くの谷間に『深淵の魔獣』と呼ばれている魔物がいるぞ。
芋虫がそのまま巨大になったような体で数十人をひと飲みにするほどだ。」
「そんな恐ろしい魔物なら、討伐しないの?」
「ああ、谷間から出てこないから、冒険者や騎士団が命を賭けて討伐するほどでもないと放置されている。」
ふうん、さすがに異世界。やっばり「魔物」も「魔法」も存在するんだ。でもそんな遠い場所なら『のんびり人生計画』には支障なさそうだな。
「そうか。お父さんありがとう。またいろんな話を聞かせてね。」
そういうと井戸端にあった濡れた布地で体をゴシゴシ拭いてから子供部屋に戻って、パジャマ代わりのぼろ布のような服に着替えた。
トイレが快適なのは本当に嬉しかった。でも、お風呂がないのはちょっときついかも。それでも食べ物を扱っているせいか、きれい好きな家だね。
昨日はてっきりエルが一晩中看病してくれていたと思い込んでたけど、内緒で二階の探検をしてみたら子供部屋はひとつだけで、あの子供部屋は僕とエルの二人で使う部屋だった。
部屋に戻ってきたエルが、「お兄ちゃんは、昨日エルシェのお兄ちゃんになったばかりだから、エルシェと一緒に寝るのが恥ずかしいんでしょう」と言ってふっふっと嘘笑いをしてきた。
ああ、これはたぶんエルの方が恥ずかしくて、照れ隠しに僕が恥ずかしがってることにしようとしているんだなと気づいた僕は、エルにあわせることにした。
「記憶をなくしただけで、お兄ちゃんはお兄ちゃんなんだから、これまでみたいに一緒に仲良く寝ようぜ。」
「な、仲良くは余計よ。仕方ないわね、寂しそうだから一緒に寝てあげるけど。」
そういうと、一緒にぎこちなく布団に入って寝た。
「ごめんな。昨日はベッドを独り占めして。エルは床で寝たの?」
「まあね。とびっきり優しいエルシェ姫に感謝なさい。」
「なにが姫だよ。」
「なによ手をつないだくせに。」
布団の中でそんな会話を楽しんでたら、枕元で「キュイ」と、かすかな鳴き声。
布団の中から、青色で細長い体に、ごま粒みたいな目が二つ。白いふわふわの尻尾のある変な生き物が顔を出した。
「あリュミちゃん!」
エルが嬉しそうに抱きかかえたら、丸くなって僕の方をじっと見てる。
「リュミちゃん?」
「そうよ。うちの子。裏庭で育ててるのが、ときどき家の中に入ってきちゃう。」
「育ててるの? 飼ってるんじゃなくて?」
「そうだよ。裏のプランターに種を植えてお水をあげていると、芽が出てきて、大きくなるとこうなるの。」
植物………じゃなくどうみても動物だろこれ。
朝は気がつかなかったけど、この家も異世界だらけ。
エルはリュミちゃんを抱えて眠そうな目になっていた。
僕は本当は眠れそうになかったけど、先にぐっすり寝たふりした。
すると寝ている僕に気づかれないようにそっとエルが僕の胸に手を当ててきて、『お兄ちゃん………』と小さくつぶやいた。
その声は、あまりに小さく震えていて、やがて「うっうっ」と押し殺すような声で泣き始めた。
あんなに気丈にふるまっていたけど、本当はお兄ちゃんがいなくなったことを、ひとりで抱えて誰にも言えず辛いよね。今は無理しなくていいよ。
よしよしと背中をポンポンしてあげたかったけれど、熟睡しているふりをしなければならなかったので、じっと我慢して、胸の中で好きなだけ泣かせてあげ、長い眠れない夜を無言で過ごした。




