72.マダムの物語―貴族の娘が切り開いた運命―(6)
半年ぶりにくぐる王立治療院の門でしたが、懐かしさも、そこにいた自分への未練も特に感じず、ただ淡々と待合室までの緩いスロープを登っていきました。
私にすぐに気づいたのは元同僚の助手の皆さんでした。私が王立癒術士試験に合格したことは皆さんご存じの様子で、突然の私の訪問に、驚きと祝福が混じった複雑な歓迎の声があちらこちらから聞こえて参りました。
静かに微笑みながらも、緊張して声も出ない私は、考えまいとしてはおりましたが、やはりその足は、テオフィールのいた病室に向かって真っ直ぐ進んでおりました。
ああ、久しぶりに会うテオフィールに、私はその第一声を何と発すればいいのでしょう。記憶は戻りましたか? 私を思い出していただけましたか? 私はあなたが望んだとおりに試験に合格しましたよ。次々と浮かぶ思いで、胸は一杯になっていました。
でも、その病室にテオフィールの姿はありませんでした。
私に相変わらず、懐かしさのこもった声で話しかける方や、祝福の言葉を投げかける人達が私の後ろからたくさん付いてきましたが、私が病室の入り口で立ち止まったら、皆さんそれまでたくさん掛けてくださっていた声が一瞬止まりました。
「ナタリア、テオフィール先生なら、すっかり健康になって、今も敷地のお庭で日に当たっていますよ。」
同僚だったベルナという名前の助手がそっと耳元で教えてくれました。ベルナは最初に私のことを訳ありの貴族令嬢と勘違いして、何かにつけて私に親切にしてくれていた同僚でした。
はやる心を抑えながら、私は治療院の庭園のようなお庭に向かいました。程なく庭のベンチに腰掛けるテオフィールを見つけ、それまで我慢していた私の目から少しだけ涙が頬を伝いました。
急ぎ足でテオフィールの元に駆けつけようとした私の足が突然止まりました。テオフィールに、まるで睦まじいという言葉が似合うほど寄り添っているセリーヌの姿が隣にあったからです。とても不安な予感がしました。それで私は足がすくんでしまったのです。
私に付き添うように一緒に庭に出てきた幾人かの助手の方の中にいたベルナが、その様子を見て小声で話してくれました。
「セリーヌ先生は、ナタリアが治療院を出てテオフィール先生の看護をしなくなってから、ずっとあのように、ただ寄り添うだけの毎日なのよ。癒術士としてのお仕事をなさっているのを誰も一度も見たことがないの。いくら王命とはいえ、ただ寄り添うだけの介護なら、王立癒術士でなくとも誰にでもできるわ。」
それでも、テオフィールがあそこまで回復したのを支えてくださったのでしたら、私には感謝の言葉しか浮かびません。でも、私のテオフィールが……。
「ナタリア、気を確かに聞いてね。いずれわかることなので、ナタリアがテオフィール先生のところに行く前にお話ししておくけれど、テオフィール先生とセリーヌ先生は、つい先日ご婚約されたのよ。」
すっと血の気が引く気が致しました。確かに私とテオフィールの婚約は、テオフィールが病気になった直後にお屋敷から私の家にご当主様がおいでになって、今の状態で婚約を続けることはとてもできないので解消したいとお申し出になり、私の父もそれを受けて正式に婚約解消しておりましたから、テオフィールが別の方と結婚されても私は何も言えない立場です。
それでも私は伝えなければならない事があります。
でも、ああ、あの睦まじいお二人を、私はどうして引き裂くことができるでしょうか。
テオフィールには、私との思い出など、なにひとつないのです。あるのは、ほんの短いあいだ、身の回りの世話をしたただの介護助手としての私の記憶だけです。
テオフィールに掛ける言葉など何一つないことに気づきました。あるのは今心穏やかに幸せを育んでいるテオフィールの心を乱すようなつらいお話だけです。
気丈に振る舞わなければ。そう私はこれでも貴族の女性のはしくれです。優雅に、できるかぎり優雅に、スカートの裾をつまみ、そして静かにこの場を去るのです。同僚の助手の皆様に涙は決して見せてはなりません。
私が王立治療院の門をくぐって外に出るまでの間、発した言葉は「皆様ごきげんよう」の一言だけでした。ああ、私はここに何しに来たのでしょう。もう二度と来ることはないと思っていた場所なのに、たかが王立癒術士試験に合格したくらいのことで、全てが元に戻ると錯覚してしまうなんて。
外には、私のことを心配してか、乱暴者のジルが、ひとり待っていてくれました。私の顔を見て幼いなりに何かを感じたのか、黙って私の手を取って、貴族の紳士でもあるかのように診療所までの街道をずっとエスコートしてくれました。
診療所に到着したら、あまりに早く戻ってきた私に、何があったのかを察した人達は、ジルがそうしたように、何も聞かずに、食堂の方に連れて行って、そこに皆が集まり、私を慰めるように、古くからある仲間を慰める歌をずっと歌い続けてくれました。
途中からは、やはり誰かが呼びに行ってくれたようで、セドリック様と、セドリック様のお姉様も駆けつけてきてくださいました。おふたりも下町のこの切ない歌を知っていらした様子で、下町の皆さんと一緒に歌って、いつまでも私を慰めてくださいました。
「ほらセドリック。思いを打ち明けるなら今しかありませんよ。下町の皆さんが証人になってくださいます。頑張りなさい。」
セドリック様のお姉様が、セドリック様のお尻のあたりを軽く叩くと、セドリック様が私の前に進み出てきました。そして恭しく片膝を床に付くと、突然の告白を始めたのです。
「ナタリア嬢、わたくしセドリックは、一年前にお会いしたときから、一時も忘れることなくナタリア嬢をお慕いしておりました。この気持ちを初めて打ち明けます。どうか私の妻になってください。私は生涯あなたを苦しませたり悲しませたりは決してしないとお誓いいたします。」
突然のことで私は言葉がありませんでした。今まで恋の対象になど、ただの一度も見たことのない方でしたので、何かの間違い話でも聞いているのではないかと錯覚したほどでした。
「ナタリア先生、セドリックの気持ちは本当です。姉の私が保証しますよ。気弱な弟ですが、ナタリア先生を幸福にできる男は、私の弟以外には絶対にいないと確信を持ってお伝えできます。どうかこの姉からもお願いします。弟を幸せにしてあげてください。」
「……でも」
私は黙って自分のお腹を見つめました。
「ナタリア嬢、わたしは今のあなたの全てを愛しております。全てを受け止めて、お子は私の子として育てます。ぜひ一緒に育てる栄誉を私に与えてください。」
セドリック様の真剣な表情は本物に思えましたので、わたしも軽い気持ちのお返事はできないと悟りました。お断りするにしても、時間を掛けて考えて話さないとと思いました。
「セドリック様、私のような者には勿体ないお言葉です。でも今すぐに心を決めることはできませんので、しばらく考えさせていただいてもよろしいでしょうか。」
そう言うのが精一杯でした。
「ちぇっ、すぐに返事しないのかよ。セドリック兄なら強欲女先生をくれてやってもいいかなって思ったのに。」
ジルがそう言うと、固唾を飲んでその様子をみていた下町の皆様も、緊張した体を息を吐きながらほぐし、何人かは奥からワインを持ってきてセドリック様に静かにすすめるのでした。
人生で一番長い日だったのではないだろうかと思うほど長い一日がおわり、診療所の二階のベッドに休む頃には、もう夜も大分更けておりましたが、しばらくは寝付くことができませんでした。
翌日の朝からは、いつものように診療所のドアを開け、待ちきれないように外で待っていた患者の診察を再開いたしました。まるで昨日までの出来事は夢の世界のお話でもあるかのように、静かな朝でした。患者の皆様も昨日の私に何があったのかをよくご存じの様子でしたが、その話には決して触れることなく、いつもの診察風景が流れておりました。
「ナタリア先生、私をこの診療所で雇って頂けませんか。」
唐突にそのようなことを言いに来たのは、昨日王立治療院でテオフィールとセリーヌのことを耳打ちしてくれた助手のベルナでした。
「先生はやめて、ベルナ。くすぐったいわ。前みたいにナタリアって呼んでちょうだい。どうしたの王立治療院のお仕事になにか問題ができたの?」
「いいえ、そういうわけじゃないの。昨日のナタリア先生の様子が……、あ、ごめんなさい。でも私の中では、ナタリア先生は王都一の王立癒術士なの。これからは私にもここに来ている患者の皆さんのように、ナタリア先生と呼ばせて欲しいわ。」
ベルナは、そう言うと、話を続けました。
「私はナタリア先生が王立治療院を黙って去って行く姿があまりに痛ましくて、もうテオフィール先生とセリーヌ先生のお二人を見るのが、絶えられなくなってしまったの。王立治療院は昨日のうちに辞表を出してきたわ。これでも私の家は少しは名のある商家ですもの、自分の食べる分くらいは何とかなります。報酬はいりませんので、どうかここで働かせて頂けないでしょうか。」
必死にすがるような目で訴えるベルナに、私は何も言えなくなりました。私がこの人の人生に何かの影響を与えてしまったのだわ。私には責任を取らなければならない義務がある。私はできる限りの笑みでベルナにこたえました。
「わかりました。ではこんなに小さな診療所ですけれど、お手伝いをお願いできるかしら。報酬は時には現物になってしまうかもしれませんが勘弁してね。」
そう言って、今日も何らかの理由を見つけて診療所に来たジルの手の中にある卵を指さしました。
「やらねえよ。これは強欲女先生に取りあげられる卵だ。でもベルナが助手になってくれるなら、この街のみんなが歓迎するぜ。この先生はちょっと目を離すとすぐに無理するから見張りが大変だったんだ。よろしくな。」
ジルは、まるでこの街の人達の代表でもあるかのようにベルナに挨拶をしました。
こうして街の人達にも受け入れられたベルナは、家からは通える距離だからといって、毎朝早く診療所に来て、お掃除をしたり、私の身の回りの世話をしたりと、まるで専属メイドのように働いてくれました。わたしもそろそろ体がきつくなってきていたので、とても助かりました。
昔からの私をよく知るベルナが、いつも近くにいて、お話相手にもなってくれるのは、とても心が穏やかになれてありがたかったです。
「ナタリア先生は、求婚してきたセドリック様にいつ心の内をお話になるの?
まさかお断りするつもりでいるのじゃないわよね。駄目よ、深く考えずにお断りしちゃ、紳士に対してとても失礼よ。」
ベルナはセドリック様が私に求婚してきた話を聞いたときは、まるで自分が求婚されたかのように顔を赤くして「まあ!」と絶句しておりました。
「セドリック様はとてもお似合いだと思うわ。私のような平民にだって、決して分け隔てすることなく、いつも紳士でいらっしゃる。私の知る限り、あれほどの紳士は他にはいらっしゃらないわ。ナタリア先生もそうよ。癒術士としてのナタリア先生は、絶対に妥協しない強い先生だけれど、ひとたび癒術士の立場を離れたナタリア先生は、気品が全身にあふれて物腰が穏やかな貴族のお姫様で、本物の淑女だわ。」
大げさよ……と申しましたが、セドリック様が紳士なのは確かなことです。思い起こせば、初めてお会いしたときから、あの方はそうでした。お姉様の治療で必死だった私は、たぶん髪も整えておらず、炭小屋で働く下女とどこも違わないほどひどい顔だったはずなのに、とても優雅なカテシーで最上級のご挨拶をしてくださいました。あのときからセドリック様の私に対する態度は、一度もぶれたことがありません。
激しく燃え上がるようなものはございませんでしたが、心が平穏を保てるようになるにつれ、静かさを求める私の心の中に、セドリック様の存在が、少しずつ広がって来るのを感じるようになりました。
「ナタリア先生、今日は市場で面白いものを見つけました!」
まるでジルと遊ぶ子供のように、セドリック様は、はしゃいだ顔で、ふたりがかりで持ってきたらしい馬の人形のようなものを診療所の中に持ってきました。
「セドリック様、これは大きすぎて邪魔です。そうでなくても狭い診療所なのですから、このような大きな木のお人形は持ってこないでください。」
ベルナに叱られて、ふたりは全く同じような顔でシュンとなってしまいました。
「これ馬の足の下にソリのような物がついてますわね。」
私が馬の人形を興味深くのぞき込んだら、途端に明るさを取り戻したセドリック様が、説明を始められました。
「これは『揺り木馬』というんだそうですよ。小さい子が乗って前後に揺らしてあそぶものなんだそうです。魔力を込めると勝手に前後に動いてもくれます。生まれてくる子にいいんじゃないかって思ってジルと運んできたんですよ。」
まるで子供に戻ったようにはしゃいでいるセドリック様に思わず吹き出してしまいました。ベルナは「ナタリア先生、セドリック様のことを、いつも紳士と言ったのは撤回します」と怒りながらも、顔は笑っておりました。
「セドリック様、これはどうみても二歳くらいの男の子が遊ぶ乗り物ですよ。まだ生まれてきてもいないし、男の子かもわからないのに、早すぎますわ。」
きっと私に少しでも笑っていて欲しいと思って、持ってきたに違いない。その気持ちがうれしくて、私はずっと木馬をなで続けていました。この木馬は、ベルナに何度も邪魔ですと言われ続けながら、この後もずっと狭い診療所の中に置かれ、小さな子供の診察椅子代わりとなっておりました。
「こういう愛の受け入れ方もあるのかしら……そもそも、これは愛なのかしら。」
セドリック様が帰られたあとで、だれに問うでもなくつぶやきましたら、ベルナが、「あふれるほどの愛に包まれると、心は騒がしくならずに、むしろ穏やかになるんじゃないかしら。」と、そのつぶやきに、つぶやきで答えてくれました。
こののち、ようやく心を決める決心がついた私は、セドリック様の求婚を受け入れるとお返事をしました。
そうしましたら、セドリック様以上にセドリック様のお姉様が飛び上がって喜んでくださり、慌てたようにお屋敷に戻ると、ご主人様に求婚の使者になるよう伝え、セドリック様のお屋敷と私のお屋敷との間を取り持つ正式な使者として向かわれました。ほんの数日のお話で、わたしも驚いてしまいました。
ベルナは、このあとセドリック様のお屋敷直属のメイドということになりました。そうすることでお屋敷に自由に出入りすることができますから、私に何事かあれば、正門からお屋敷に直接入っていってセドリック様にお伝えすることができます。
セドリック様のお屋敷に、私もご挨拶にお伺いしましたが、ご当主様ご夫妻もとてもお優しいお方で、何よりもセドリック様のお姉様のことでは返しきれない恩があると、セドリック様と同じような事を言って、私の手を取り泣かれてしまい、私はどうして良いかわからないほどでした。
結婚後も私が望むのであれば下町の診療所のお仕事は続けてもいいというお許しも頂きました。さすがに伯爵家の妻が下町に一人で暮らすのは無理なので、毎日お屋敷の馬車で送り迎えする話にはなりましたが。
アルフェルド伯爵家の次期当主セドリック・ド・アルフェルドの結婚式は国王陛下もご臨席いただくほどの盛大なものでした。わたくしは、さほど目立たぬようにと配慮された白く柔らかなドレスに身を包んで、貴族の皆様からの祝福を受けました。父も母も、王城にいる私の姉も、新当主になったばかりの弟も、みな祝福してくれました。
私の姉も少し目立つおなかをしていました。
「まあ臨月が一緒なのね。仲の良いお友達になれるといいわね。」
屈託のない、いつも明るい姉の笑顔には、とても救われます。
「いいな姉さん達は。僕のところはなかなか子宝に恵まれなくてね。」
弟は、少しおなかをなでていいかと私に聞いてきて姉に叱られていました。
「私のおなかでもなでなさい」と言われて「やだよ」と逃げていく弟に、「何処が違うんでしょう」と姉は笑いながらその後ろ姿を目で追いかけていました。
昔の明るく陽気な姉弟の頃に戻った気がして、とても懐かしくなりました。
ああ知らなかった。私にもこんな幸せが用意されていたんだわ。
運命に翻弄されながらも、私はみんなに守られて、こんなにも幸せでいられる。脳裏に浮かぶひとりひとりに、心の中で感謝の言葉を告げておりました。




