70.マダムの物語―貴族の娘が切り開いた運命―(4)
熱が完全に治まった患者はみるみる回復していって、私の勧めた栄養のあるスープも飲めるようになりました。私は静かに幕の向こうにいるテオフィールの元に行くと、何も言わずにその胸の中に包まれ、テオフィールは黙ったまま額にキスをしてくれました。
産褥室を出ると、穢れを嫌う貴族のしきたりに従って私は着ていた白衣から下着まで全て脱いで、お屋敷から支給されたドレスに着替えました。
屋敷の主人達はやはりしきたりに従い、産褥室から出てきた私に会うことはできませんでしたので、代わりに私たちをもてなしたのは、患者の実家から駆けつけていた実の弟でした。
「セドリックと申します。テオフィール様、このたびは姉の命を救っていただき、心から感謝申し上げます。王都に聞こえの高い癒術士のテオフィール様に救っていただき、家人も、とても喜んでおります。」
丁寧に頭を下げるセドリック様の言葉に、感謝の気持ちがあふれているようでした。
「いいえ、セドリックさん、誤解があるといけませんので、お話ししておきますが、患者をその身に変えて救ったのは、ここにいるナタリアです。私も、そこに控えている癒術士も、実は何もしておりません。産褥室ですからね、男は何もできないのですよ。女性のナタリアが、たったひとりで命がけで救ったのです。」
そのように、おおげさに話すテオフィールに、驚きの顔を隠せない様子のセドリック様は、正式な貴族の礼を持って私に挨拶をしてくださいました。
「ナタリア嬢、このご恩はわたくしも、わたくしの家族も、生涯忘れることはないでしょう。心から感謝申し上げます。このご恩にはいつの日か必ず報いたいと存じます。」
私も何かご挨拶をしなければと思いましたが、適当な言葉がみつかりませんでした。
「セドリック様、ご丁寧なご挨拶、痛み入ります。私は貴族の娘としてではなく、ここにいるテオフィールの専属助手としてここに来ておりますので、家名を名乗らないご無礼をお許しください。」
そうして、助手なら当然そうすると思いながら、挨拶はそこそこにして、患者の世話をしているメイドを呼んでもらい、患者の清潔を保つためのいくつかの指示をさせていただきました。
セドリック様は、私のまるで貴族の娘らしからぬ行動に、しばらくは唖然としておりましたが、気を取り直したように、私たちを、最高のもてなしで食事に誘ってくださいました。
その後、治療院に戻って、報告書を書いて院長に提出すると、さすがに疲れが出ていて、このまま患者の治療にあたるのは良くないと自分で判断したわたくしは、この日は家に戻って早めに休むことにしました。
本音を言えば、あれほど頑張って勉強してきた癒術士試験に行けなかったことで、無力感が激しく、とてもここにいられる状態ではなかったのです。自分の決断には少しも後悔はないはずなのに、屋敷に戻って、ひとりで泣きたい気持ちになっていたのです。
私の耳に、王立癒術士試験が終了して、セリーヌ・ド・シルフォワ子爵令嬢という、一度も名前を聞いたことのない人が、王国初の女性王立癒術士に選ばれたことが聞こえてまいりました。
セリーヌは、王の改革最初の成功例として、国王により、王国中に広く紹介され、国をあげて祝福されたそうです。
その祝賀ムードは、王都のメイン通りを、聖獣馬が曳く王家の紋章の入った馬車の上で、セリーヌが手を振るパレードで最高潮に達し、家々の窓からはたくさんの花びらの吹雪が巻かれ、人々の歓声が王都中に聞こえたそうですが、私はテオフィールから受けた強い回復魔法の後遺症で伏せっておりましたので、その光景を見ることはありませんでした。
『王国初の女性王立癒術士セリーヌ・ド・シルフォワ子爵令嬢』の名は、その後も語り継がれ、癒術の教科書にはたくさんのページが割かれて今でも紹介されております。
後に、新たな王立治療院が建設された際には、その名も『王立セリーヌ記念治療院』と名付けられ、セリーヌは初代の院長に就任したというお話です。
そのような外の騒ぎなど無縁な場所で、私は相変わらずテオフィールの助手として、難しい患者の治療や、貴族のお屋敷への往診に明け暮れ、時には下町の平民の家にまで出かけていったりと、その忙しさに王立癒術士試験の事はいつしか忘れてしまっていたほどでした。
でも、初の女性王立癒術士誕生の余波は、意外なところで私を苦しめることになりました。「無資格の助手が、女性患者の前で癒術士の真似をしている」という心ない中傷がきこえるようになってきたのです。
女性の王立癒術士がいるというのに、女性患者をその癒術士に診察させずに、なぜ助手に任せているのだという苦情が、連日テオフィールの元に届くようになりました。
「任せたくとも、その肝心の女性王立癒術士とやらは、一度も王立治療院に出勤してきたことがないから任せようがないしな。そもそもどのくらいの腕があるのかもわからないから検討すらできない。われわれとしては女性患者を全部任せたい心境なのになあ。」
とテオフィールは意にも介さない様子でした。
私はと言えば、テオフィールの「気にするな」の明るい一言で、そのような陰口はきれいに忘れることができました。
忙しい毎日の中でもテオフィールと私は愛を育み、もう少し落ち着いたらきちんと結婚をしようと話し合っておりました。
そうして半年ほどが過ぎた頃でした。ある日突然テオフィールが王立治療院に姿を見せなくなってしまったのです。重症患者を放置して治療院に現れなかったことなど、ただの一度もなかったテオフィールに、何か重大な事が起きたのではと感じました私は、テオフィールのお屋敷にすぐに伺ったのですか、「ここにはいない」と冷たく門前で追い返されてしまいました。
何事が起きたのかもしれないまま、何日か過ぎた頃、ようやくテオフィールが王都の外れにある療養所にいるらしいという話を聞いて、いても立ってもいられずに、すぐに駆けつけました。
やっとの思いで探し出したテオフィールは、別人のようになっていました。患者から移された伝染病に犯されて、療養所でひとり病気と闘っているうちに、伝染病は何とか治ったのですが、その間に高熱に長期間晒されたため、記憶を無くしているとのことでした。
テオフィールのお屋敷の方は、私に知らせれば、必ず治療をしたいと駆けつけて、ふたりとも感染してしまうから、決して話さないようにと使用人に口止めしていたのだそうです。
「テオフィール、ひとりで病と闘っていたのね。力になれずにごめんなさい……。でもこれからは私がついています。記憶が戻るまで、私がずっとおそばにいますからね。」
私は、全てを忘れて遠いところを見つめているだけのテオフィールに泣きすがっておりました。
伝染病の心配がなくなって、設備の整っている王立治療院に転院したのは、それからひと月も後のことでした。テオフィールは自分がこの王立治療院で働いていたことも、全く思い出せないようで、まだ戻らぬ体調でうまく歩くこともかなわず、ベッドに横たわるだけの毎日でした。
しばらく経ったある日のこと、いつものように出勤して、真っ先にテオフィールの部屋に参りましたら、見知らぬ女性がテオフィールに朝食を食べさせておりました。そばにいた同僚の助手に尋ねましたところ、あの人が今年王立癒術士になったセリーヌさんだと告げられました。
今まで一度も王立治療院に来たことのないセリーヌさんでしたが、国の宝とも言える天才王立癒術士のテオフィールが病に倒れたことを知った国王が、特にセリーヌさんを指名して治療にあたらせることにしたのだそういです。
「あなたがこれまでテオフィール様の看護を担当している助手のかたね。癒術士の資格もないのに、見よう見まねで看護されていたそうで、さぞ大変でしたでしょう。今日からは私が治療をいたしますから、ご安心なさいね。天才王立癒術士のテオフィール様が記憶をなくされたまま、助手に任せて、まともな癒術士の治療も受けていないと聞いて、いても立ってもいられずに駆けつけたのよ。私には専属の優秀な治癒魔術師がたくさんいますから、もう安心です。あなたをテオフィール様の看護から解放して差し上げますね。今までご苦労様でした。」
「でも……私はテオフィールの専属助手ですので、離れるわけには……。」
涙目で訴えましたが、治癒魔術師でもない雑用係の助手が、よくこれまで慣れない看病をしてくれましたと、感謝の言葉を告げながらも、セリーヌは決して私がテオフィールの近くに行くことを許しませんでした。
テオフィールは、まるでただの介護助手のひとりを見るような目で私を一瞥しただけで、セリーヌから渡された食事を美味しそうに食べていました。
その後の私は、いったいどうしたというのか、無意識のうちに気がついたらテオフィールの聴診道具が入った鞄を抱えて、いつもならテオフィールの後ろから遅れまいと早足であるいて患者の往診に回っていた下町の街道を歩いていました。
「あら、ナタリア先生じゃないか。しばらく来なかったから、私らのことなんか忘れちゃったのかと思ったよ。ありがとうね、往診に来てくれて。うちのバカ息子が、先生に駄目だって言われてたのに聞かずに酒飲んじまってね。足が痛いって騒いでるんだよ。なんとかしておくれよ。今日は男先生は一緒じゃないんだね。」
いつも陽気なおかみさんでした。その声に気づいたのか、次々と私の周りに、病気の時にお世話をした患者や家族の人達が集まってきました。
「先生だけだよ。私らを見捨てないでいてくれるのは。本当に感謝しているんだからね。」
そう言われた瞬間、私はようやくその場にテオフィールの鞄を抱えたまま、泣くのを許された気持ちになって、大声で泣き崩れました。
下町の優しい皆さんが抱きかかえるようにして近くの食堂に連れて行ってくださり、椅子に座るよう促されると、皆さんは何も聞かずに、ずっといつまでも私の背中をさすっていてくださいました。
その日私は初めてお屋敷に無断で外泊しました。食堂の旦那様や奥さんのご親切で二階の宿部屋に泊まらせて頂いたのです。
翌朝も、噂を聞きつけた下町の皆様が、私のことを心配して次々とやってまいりました。いつの間にか、こんなにも私は下町の皆様に守られていたことを知り、感謝の気持ちで一杯でした。
やってきた人の中に、平民ではない方もいらっしゃいました。
「もし私にお力になれることがございましたら、ぜひ言ってください。私には尽くしがたいご恩があるのですから。」
そうおっしゃってくださったのは、私が王立癒術士試験の前夜に治療した褥婦の弟のセドリック様でした。あのとき食事をもてなしてくださったセドリック様は、変わらぬ紳士の態度で私に貴族の挨拶をされていらっしゃいました。
「ナタリア嬢、半年ほど前に、姉の命を助けて頂いたセドリックです。覚えていらっしゃいますでしょうか。」
「忘れるはずがございません。お姉様はすっかりご健康になられたと伺っております。でも、どうしてセドリック様がこちらにいらしてるのですか?」
貴族がこのような平民の食堂に来ることなど普通はあり得ないことです。あまりに不思議だったものですから、尋ねました。
「そりゃあナタリア先生、このセドリックさんは、いつもナタリア先生の事を心配していて、私らにナタリア先生を困らせないようにって、先生へ渡す治療代を立て替えてくださったりしていたのさ。先生が何か困っていたらお屋敷にすぐに連絡してほしいって言われてたから、皆が急いで知らせに行ってきたってわけよ。」
以前治療したことのある、人なつこい町民の方がセドリック様のかわりに教えてくださいました。
「まあそのようなことを……。私は医術を心得る者として当たり前のことをしただけですのに……。」
「ナタリア嬢、そのような謙遜をなさらないでください。ここにいる皆さんには、いかにナタリア嬢が素晴らしい癒術士であるかを、何度も繰り返し聞かされていて、みんな覚えてしまったほどです。本心皆さんも私も、あなたには感謝しているのですよ。困っていらっしゃるときくらい手を貸すことを許してください。」
「そうだよ、そうだよ」という町の皆さんに勇気づけられて、私は少しだけ落ち込んでいた気持ちを救って頂いた気がいたしました。
それほど詳しいお話はできませんでしたが、私にはもう居場所がどこにもないのですと、寂しい気持ちを皆さんに打ち明けました。
「何処にも行くところがないんだったら、ここに診療所を開いておくれよ。みんな貧乏だから儲からないかもしれないけれど、食べていくくらいはできるよ。ご飯くらい私が三度三度とどけるしね。」
宿のおかみさんが、そう提案すると、「ならあそこに診療所にちょうどいい部屋がある」などと誰かが言いだし、「部屋の契約料くらい、お金持ちのセドリックさんが出してやれよ。」と、無骨な体をして昔治療した怪我がすっかり治ったと笑っていた酒屋の主人が言い、私が何も言いださないうちに、すっかり私は下町の診療所の仕事をすることになってしまったのでした。




