22.パン工房はいろいろ忙しい(1)
ガムを、チョコなどの油脂と一緒に口に入れてると溶けてなくなる話はよく知られてますけれど、それは合成ゴムを使ったガムの話で、天然ゴム(チクル)で作ったガムは、柔らかくなるだけで溶けにくいのだそうです。
夕飯の時間より少しだけ早く帰ってきたので、厨房でお父さんのパン焼きの仕事を手伝うことにした。
『厨房』という言い方は、パン工房エルの作業場という意味で使われているみたい。他の部屋と違って壁はしっかりとしたレンガ造りで、いかにもパンを作る作業場って感じの場所だ。
手伝うといっても、道具を洗ったりするだけで、生地をこねたり、オーブンで焼いたりする仕事は見てるだけ。
お店のパンは全部試食したわけじゃないけれど、食事によく出てくる、堅焼きパンの上にパウダーシュガーを振っただけのシンプルなパンが一番好きだ。
パン生地にも適量の砂糖が練り込まれているけれど、砂糖が特に高級品というのでもなさそう。
結構ふっくら焼けているから、イースト菌もこの世界にはあるのかもね。でもほんの少しだけ苦みを感じるところが、元の世界のパンと違うところかも。さすがにパンは作ったことがないから、違いの説明はできないけど。
「ほらお兄ちゃん、つまみ食いはだめでしょ!」
「いやこれは端の捨てるところだよ。堅くてちぎれないから、ガムみたいに口に入れて噛んでるだけ。」
「ガムって何? それギルドで食べたの?」
僕とエルが楽しそうに会話しながらお店のお手伝いしていたら、ようやくホッとした空気が流れてきた。
「テムリオ。明日のパン生地の準備をするから、裏からリュミちゃん三本持ってきて。」
唐突にお父さんに言われて固まった。
お父さんでも「リュミちゃん」って、かわいい呼び方するんだ。
いや、固まったのはそこじゃなくて、言っている意味がよくわからないから。
なんでパン生地の準備にリュミちゃんが必要なんだろう。
慌てたようにエルが「エルシェもお手伝いする!」と言って僕の手を引っ張り、トイレと物置の間の通路を奥に進んでいった。僕が固まった理由をすぐ理解したんだね。ああ、そういえばトイレの奥って、行ったことがなかったな。
「お兄ちゃんこっちだよ。」
エルが目の前のドアを開けたら、そこは裏庭だった。
ダイニング横のドアの先にある井戸端とは、また別の場所だ。
家の外壁には、燃し木屋から買った薪が、蔓縄で束ねられてずらりと立てかけられていた。ドアの前にも置かれていて、内開きだから出入りはできるけれど、人ひとりがやっと通れる幅しか残っていない。まるで何かから家を守る盾のように並んでいた。
外に出ると、目の前には小さな小屋がひとつあった。お父さんが仕事の話をしているときに、時々出てきていた「外の倉庫」って、この小屋の事みたいだ。
左の方は、半分は畑になっていて、家族が食べる野菜や、お店で使うハーブなどが植えてある。
残り半分は動物小屋みたいな小屋になっていて、中を覗いたらリュミちゃんがいっぱい。もこもこと僕の方に近づいてきて、「キュウイ、キュウイ」と大合唱になった。
よく見ると鉢植えの鉢の中にはリュミちゃんそっくりの植物が芽を出し育っていた。
また足元にはリュミちゃんくらいな長さの木の枝がたくさん落ちていて、その枝にもリュミちゃんの尻尾がついている。
ふうん、不思議な生き物だね。植物か動物かいくら見てもわからない。
裏庭の先には裏木戸があってその向こうは細い裏通りになっていた。ここも多少人通りがあるから、通り抜け道路になっているみたい。
「おにいちゃん、これだよ。」
エルが、リュミちゃん小屋の足元に落ちてる木の枝を拾って僕に手渡してきた。
「これはね、一週間くらいしたリュミちゃん。種を産んだら、こうやって木の枝になって枯れるんだよ。あ、柔らかい枝だから持つとき気をつけてね。
この枝の中にある粉をパン生地に混ぜると、パン生地が膨らむの。
残った尻尾はお母さんが売ってるお菓子の下に敷くのに使ってる。あとエルの『もこもこ枕』の中にも入ってるよ。お兄ちゃんの枕には、森で集めたつぶつぶが入ってる。」
へえー、これがイースト菌の役目をしてたのか。エルのペットかと思ったら、パン工房には必須の植物?動物?だったんだね。少し苦みを感じたのは、これのせいかな。
感心しながら、エルに促されて状態の良さそうなリュミちゃんの枝を三本拾うと、お父さんの待つ厨房に持っていった。
厨房でお父さんの仕事をエルと一緒に眺めていたら、お店のドアが開く音が聞こえてきて、同時にお店にいたお母さんの驚いた声が聞こえてきた。
「いらっしゃいませ……って、きのうの冒険者の方?」
冒険者と聞いて、あわててお店に出て行こうとした僕を制止して、ここにいなさいという顔をしたお父さんが、お店の方に向かっていった。
僕とエルは、厨房でその様子をうかがうことにした。
「ああ、トラヴィスさんでしたか。」
あれ?
トラヴィスって、ええと、どこかで聞いたような……。
あっギルドでアゼリア達と一緒にいて、僕に話しかけてきた盾持ちの冒険者だ。
お父さんに止められたので、お店を覗くこともできずにそわそわしていたら、横でエルが不安そうに僕の袖を握って見上げてきた。
ごめん。心配させちゃうよね。
「うちのリーダーが仕事中に市場でテムリオ君を見たと言ってましてね。賊を追って急いでいたので見間違いかも知れませんが、その賊に突き飛ばされたように見えたというので、確認に伺ったんですよ。」
「確かに今日テムリオは市場にお使いに行きましたが、そのようなことはなかったとのことです。怪我もしていません。ご心配いただきありがとうございます。」
いつもより少しだけきついお母さんの声がした。
「そうですか。それは安心しました。リーダーにはそのように伝えておきます。
それとしつこくて申し訳ありませんが、ぜひクラン入りの件、テムリオ君にもお伝えください。」
なんだか、ギルドで立ち話したときの屈強なトラヴィスと、丁寧な紳士口調のトラヴィスが全然つながらない。
トラヴィスの言葉を遮るように、今度はお父さんの不快そうな声が聞こえてきた。
「息子は冒険者ギルドに登録しましたので、クラン加入はしないとのことです。
それに、どうしてうちの息子なのかという一番重要なところを伺っていませんし。」
「あー、そうでしたね。実は俺もうまく説明できないんですが、うちのリーダーが、テムリオ君に一目惚れしまして、クランには絶対に必要な人材だと強く推していましてね。それと冒険者ギルドに登録していても、うちのクランには加入できます。」
その『一目惚れ』の意味がちょっと違うような……。
「すいません。先日は突然だったので、伺ったクラン名を失念してしまったのですが、もう一度伺ってもよろしいですか?」
お母さんは、言葉が丁寧になるほど怖い。
「ええ、クラン名は『蒼の誓』。クランリーダーはアゼリアと申します。」
すると父のびっくりした大きな声が聞こえてきた。
「アゼリアって!」
そして、少しだけお店の中がシーンとなった。
一呼吸おいて、お父さんの、疑うような静かなトーンの言葉が聞こえてきた。
「もしかして『蒼洞のアゼリア』?!」
ああ、お父さんも知ってるのか。やっぱり町外れのパン屋でも知ってるほど有名人だったんだね。




