高山にて 住処
ハルタカの住処に着いてから、およそ十日が経った。
マヒロは最後の水生石のかけらを水筒に入れ、わずかに残った呼び水をかけた。ぼこん、という音とともに水が生じる。
住処には水場がない。ハルタカが自分で水を引き寄せることができるからだ。つまり水場がある必要がないのだ。
タムに追加でもらっていた水生石も大事に使っていたが、とうとう最後のかけらも使ってしまった。これでもう水はない。
マヒロは少しだけ喉を潤すと、ばたりとハルタカの隣に寝転んだ。
水を節約しているからあまり温かいものなどは食べられていない。乾燥携帯食を多く用意していたので、そのまま食べられるものが少なかった。高山にはいざともなれば雪があるから、そこまで水が足りない状況になるとは思っていなかったからだ。
登山による疲れと飢えと渇き。そしておそらく、斜面から大きく滑落した時の傷などのせいか、マヒロの身体はこの二日くらい熱っぽい。
思考能力もだんだん落ちてきていて、どうするべきかをあまり考えられない。
何となく身体が震えているかも、と思いながらマヒロは目を閉じた。
喉の渇きで目が覚める。窓から見える景色は薄い紅色と紺色が入り混じっているが、朝なのか夕方なのかわからない。マヒロはぼんやりしながら水を飲もうと身体を動かそうとした。
が、動かない。
鉛でも詰められているかのように腕が、胴が、頭が重い。刺すような頭痛と眩暈がして頭がぐるんぐるんと揺れているような気さえする。
だが喉は乾ききって貼りつくように痛みがあるほどだ。
重い腕を少しずつ持ち上げて、寝台横の小机に置いていた水筒に指を伸ばす。
指は、水筒をかすめ、水筒はそのままゴトンと床に落ちて転がっていった。
ああ、無理だ。もう、身体を動かせない。
マヒロはぱたりと腕を落とした。そのままどうにか頭だけでもハルタカの傍につけたいと引きずるように動かす。ブチリ、という鈍い音とともにじわっと痛みに似た刺激が耳に生じた。ぬる、とした感触がする。血でも出たのかもしれない。
だがそれを確認するために腕を動かすこともできなかった。
ハルタカ、ごめん。
百年経ってたら、私はもう塵になって消えているかな。
目が覚めて、横に骨だけあるとか、恐怖だよね。
そんな目に遭わせたくなかったけど、もう、身体を動かせない。
ごめんね。
私のせいで、眠らされちゃって、気がついたら横に死体が転がってるなんてやだよね。
でも、私は頑張ったよ。
テンセイだって私をここまで連れて来てくれた。
ハルタカに会えて、ハルタカの横で逝けるなら、私は満足だけど
ごめんね。
マヒロの目から、つうっと涙が流れ落ちた。
身体中が重い。
そして何だか、熱い。
ふわふわした感じがして、寝ているのか立っているのかわからない。
ただあれだけマヒロを苦しめていた頭痛は無くなっていた。
瞼が重い、
その時、ぬるりとしたものがマヒロの中に入ってくるのがわかった。
それは温かく、じんわりとした優しさをマヒロの中に押し込んでくる。
嬉しくて、その温かいものを夢中で飲み込んだ。
「マヒロ」
ごくんと呑み込むと、少しだけ瞼が軽くなった。何とか目をこじ開ける。
そこには、銀色の髪を乱し、金色の瞳から涙を溢れさせている美丈夫がいた。
ハルタカ。
マヒロは呼びたかったが、口が動かない。目も長く開けていられなくて瞼が下がる。ハルタカは「マヒロ」ともう一度呼びかけて深い口づけをした。柔らかいハルタカの唇が吸い付くようにマヒロの唇に触れる。その隙間からハルタカの長い舌が割り入ってきて、マヒロの舌を絡めとる。そのままハルタカから唾液とともに温かさが押し込まれる。
その快さにまたマヒロはのどを鳴らしてそれを飲み込んだ。
飲み込めば、マヒロの身体全体が温かくなって軽くなる。
気づけばハルタカは「マヒロ、マヒロ」と呟きながら深い口づけを繰り返し、マヒロの身体中をその身体で抱きしめていた。腕はマヒロの背中に回され背中を撫でさすっているし、足もマヒロの下半身に巻き付けられている。
まさに身体中で抱きとめられている。
何度かハルタカから温かいものを押し込まれ飲み下すという作業を終えると、またマヒロは目を開けられるようになった。
「ハ、ル‥カ」
ガサガサの掠れたものではあるが、少し声も出せた。
それを聞いたハルタカはハッとしてマヒロから少し身体を離し、その顔を覗き込んだ。
「マヒロ、気づいたか?私がわかるか?‥なぜ、こんな‥酷い状態になってまで、ここに来るとは‥」
「うれ、し‥」
マヒロはほっとした。
ハルタカが生きている。
目の前で起きて、話している。
自分を抱きしめてくれている。
‥あれ、私死んだのかな?死んで夢見てるっていうオチかな‥?
「ハル、タカ」
掠れる声で呼ぶと、ハルタカは両手でマヒロの顔を支えて正面からマヒロの顔を見てくれた。
「どうした、何か言いたいのか?‥まだ話せないだろう?心を読んでいいなら読む、許可してくれるなら目をつぶってくれ」
そう言われて、マヒロはぎゅっと目をつぶった。
『ハルタカ目が覚めたの?』
『ああ、マヒロのお陰だと思う。マヒロ、身体はどうだ、何かしてほしいことはないか』
『喉が少し痛いのと身体が重いだけ、かな‥。あんまりよくわからない』
『どうやってここまで来たんだ‥ヒトが来れる場所ではないぞ』
『途中までは自分の足で登ってきたよ。だいぶ上まで来た時に滑落しちゃって、もう駄目かもと思った時、テンセイが助けに来てくれたの』
『テンセイが‥ああ、マヒロのピアスが割れていたな。私が応えられなかったからテンセイが代わりに行ったのかもしれない。私とテンセイの繋がりは深いから』
『そしてハルタカのところまで来たんだけど、ハルタカが起きてくれなくて。ずっと傍にいたんだけど、‥多分十日くらい?の後から記憶がないや』
『‥‥‥お前はほとんど死にかけていた。その時何かの拍子でもう片方のピアスが割れたのだろう。お前の生命活動が絶えようとしているのが、私の魂に届いた。
お前を、絶対に死なせない、という気持ちが私を目覚めさせたのだと思う。マヒロ‥死ななくて、よかった‥』
心の中でそこまで会話をすると、またハルタカはぎゅっとマヒロを全身で抱きしめた。マヒロはそのハルタカの温かさに心から安心した。何故か、涙溢れてきた。
『‥なんでかわかんないけど涙止まんない』
『泣くと体力を消耗する。泣くなマヒロ』
『‥ハルタカが、タツリキで回復してくれるんでしょ?‥粘膜接触で』
マヒロが、いたずら心でそう伝えると、すぐにハルタカは深い口づけを再開した。
『あったかい、ハルタカのキス‥』
『口づけのことだったか。お前の体力と、怪我もひどかったからその回復のために何度もタツリキをのせている。一度には良くならないからしばらくは絶対安静だ。もう少ししたら何か食べられるようになる』
『心で話していると、キスしてても話せて便利だね』
『‥‥目覚めたら横で番いがほぼ死にかけていた私の心も考えてくれ』
『それは、ごめん』
ハルタカの口づけにより、どんどんマヒロは身体が軽くなっていくのを感じていた。怠さはまだ消えないが、この怠さは治るのに時間がかかることを知っている。
何より時間がかかっても、その長い時間をハルタカを過ごせることがわかっているから、今は何も辛くなかった。
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