高山にて マヒロの行動
雪は、ほぼやんで空の暗い青が透けて見える。名残りのように、ちらちらといくつかの雪片が舞っているだけだ。
マヒロは用心深く、身体をねじってそっとテントから抜け出し荷物を取り出すとテントを畳んだ。雪を踏みしめるとぎゅ、ぎゅ、と音が鳴る。一足ごとにどきどきしながら準備を整えた。
ルウェンとタムのテントに、手紙を紐で括った。何度も練習してこちらの言葉で書いたので読めるはずだ。
「わたしは いく わたしの、きめた
おう、しない わたしの のぞみ
たくさん ありがとう わたしは しあわせ」
同じ内容の手紙である。
風で飛ばないよう、しっかりとテントの出入り口に結びつけて立ち上がる。
冷たい空気が頬を切るようだ。少し弾んだ息が白く顔の前で舞い上がる。
一面の雪景色の中、何の音もしない。静謐な朝の空気だけが辺りを包んでいる。
(こっちに来た最初の頃、全然音がなくって怖かったっけ)
マヒロは思い出した。
どこまでも続く道と、生き物の気配が全くしなかった森。虫の集く音さえしない様子に恐怖を覚えたものだ。
今も同じ静謐な無音の世界にいるが、なぜか恐怖はない。
死にたいわけではない。
ただ、ハルタカのもとに行きたいだけだ。
その気持ちがあるだけで、心は安らかで不安がなかった。
死に対してあまりにも無知で無謀かもしれない。
だが、マヒロは全くこの決断に迷わなかった。
(よし)
背中の荷物に注意深くテントを括りつけ、歩き出す。ぎゅ、ぎゅ、と音がするのでできるだけ大股で歩いた。しばらく歩いて二人から少し離れたところまで来て少しホッとする。
歩くと言ってもほぼ斜面のようなところを斜めに登っているようなものだ。すぐに、身体の中が熱くなってくる。優秀な防寒具は、汗をかいてもあとから冷えないような工夫がされているらしく、不快感はなかった。
小さな灌木に一度寄りかかって水筒を取り出し水を飲む。今日の分は水筒に水生石を入れて作ってあった。
「マヒロ様」
思いがけず呼ばれた声に身体が硬直した。恐る恐る振り返ると、タムの姿があった。タムは、静かな目でマヒロを見つめている。
「行かれるのですね」
マヒロは水筒をしまってタムに向き合った。
「うん。‥約束したのに、ごめん」
タムは、少し困ったように笑った。綺麗だな、とマヒロは思った。
「‥お止めしません。命に大きな危険があることはご承知ですね?」
「うん」
「それでも行かれるんですね」
「うん」
その返事を聞いて、タムは腰から小さな袋を出した。
「水生石です。水は貴重ですから、これをお持ちください。日が暮れる前に必ず休む場所を見つけてください。出来るだけ灌木の近くで休んでください」
「‥ありがとう。わかった」
タムは、そっとマヒロに近づいて抱きしめた。その温かさに、マヒロも思わず抱きしめ返す。じわりと涙がこみあげてくる。
「ナシュが悲しみます。生きる努力はなさってください」
「うん、ありがとう」
そう囁いて、タムはマヒロの身体を離した。
マヒロは手袋でぐいと涙を拭って、笑った。
「行くね」
「お気をつけて」
そして、そのまま頂上に向けて歩き出した。
タムは、その姿をしばらくずっと目で追っていた。
マヒロの姿がかなり小さくなった時、後ろから足音が聞こえた。
「マヒロ様は行ってしまったのか⁉」
ルウェンの声がした。タムは振り向かずに頷いた。
「なぜ止めなかった!この先は‥」
肩を掴むルウェンに、タムは力なく首を振った。
「あの方を止める権利など、誰も持ってはいないんですよ、ルウェン様」
ルウェンは、タムの静かで、しかし燃え盛る焔のような強い言葉にのまれた。
びゅうびゅうと風が吹いている。あられのような細かい粒が風と共にマヒロの顔を叩いていく。何か所か頬が切れているのを感じたが、その傷口さえ寒さで凍っているようだった。
テンセイに乗って上から見た時の感じを思い浮かべる。
多分、この山の上の方。あの灌木の茂みのようなものの上の方。あそこが住処ではなかったか。
目視できる限りでもかなり遠い。上から見た時と同じくらい、灌木の茂みが小さく見える。かなり距離があるということだろう。
道などない、崖のような斜面をかぎづめのような手足につける道具を使って登って行く。
二人と別れて五日が経った、と思う。五、六回は寝たと思うからだ。時間の感覚がない。雲が厚く覆って陽が射さない時期もあったからよくわからなくなっていた。
ここまでくると平地はない。テントを作って斜面に立てかけるようにして固定し寝ていたが、かなり不安定で何度も目が覚めた。
体力が限界を迎えているのがわかった。あのてっぺんまで、やはりたどり着けないかもしれない。身体は熱いのに、どこか寒くて指先の感覚はない。
気づけば唇が震え、歯の根が合っていなかった。
(去年は、まさかこんなところで死にかけるなんて思ってなかったな)
そう思いながら、防寒具の上から銀の腕輪があるところをさする。
(ハルタカ、ハルタカ寝てるの?こんなに会わなかったことないよ。会いに来てほしい。‥でも寝てるんだよね。今私が向かってるよ。住処に着いたらたたき起こすからね)
腕が痺れてきた。
脚の鈎爪をぐっと食い込ませ、斜面に一度身体を預ける。空気が薄いのか、はっはっと呼吸が荒くなる。出来るだけ落ち着いて、ゆっくりと深呼吸をする。このままだと高山病になってしまうかもしれない。
ハルタカがいる時は、そういう事もすべてハルタカが気を配って助けてくれていた。
(甘やかされていたなあ)
そう思う。
隠しから小さな飴を取り出して口に入れた。優しい甘さが広がる。
よし、と上を見た。ここから見るともうほとんど壁のようだ。
(諦めない)
ふう、ともう一度呼吸をして、手の鈎爪をがっと上に食い込ませた。じりじり、少しずつ登る。もう少し登ればまた灌木が生えているところがある。あそこまで行ったら少し休憩しようと考え、足の鈎爪を抜こうとした。
ばきん、と爪が折れた。アッと思った時には片足がぶらんと足場を失って宙に浮いた。
(やばい)
力の入らない足を必死に持ち上げ、何とか斜面につけようとする。
その時、手の鈎爪を食いこませていた斜面がボロりと崩れた。
(あ)
マヒロの身体と荷物の重さに負けた手足の鈎爪は、ぼきんと折れ、マヒロの身体は宙に投げ出された。
そのまま、ざざざざっとマヒロの身体は斜面を転げるように落ちていった。
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