困惑と羞恥
「おはよう」の一言がなかった。それだけで完璧に諦められるほど、彩の学習能力は高くない。
休み時間に入るや否や、梨沙のほうを見る。
梨沙は教室後方、窓際の席。彩は出入り口側の中央やや前方。
容赦なく日差しが振りそそぐ中、梨沙は爆睡していた。
眠っているのなら仕方ない。彩は視線を黒板に戻した。
昼休み、体をこわばらせて周囲をうかがう。
いつも話しかけてくるクソったれどもは教室の後ろに固まっていた。自分ひとりの意思では何をすることもできない劣等種ども。
やつらは彩のほうを見て、とまどいながらも、近づいてきた。
彩は視線を落とす。涙が出そうになる。
だが、いつまで経っても話しかけられることがない。
恐怖と好奇心がないまぜになる。後者が優勢になり、視線を上げた。
梨沙が睨んでいた。
あと十歩のところまで来ていた劣等人種は冷や汗を流し、気まずそうに視線をさまよわせてから、仲間たちのもとへと帰っていく。
「今日は気分じゃないわ」だの「いつも同じやつに構っても飽きるわ」だの、見え透いた見栄を張っている。
やっぱり助けてくれてた。見捨てられてなかった。
梨沙のほうを見ると、すでに寝息を立てていた。
昼食はひとりで食べた。
放課後までには、彩は理解していた。
梨沙は守ってくれる。それはまちがいない。だが、それ以上の何かではない。
挨拶もしてくれないし、休み時間を一緒に過ごさないし、お昼も誘われない。
別にいい、守ってくれるだけでありがたい。
『かわいいじゃん』
昨日のセリフが空しく響く。
浮ついていた自分のなんと滑稽なことか。
帰り支度をしていると、背後から足音。
また来た、同じやつに構っても飽きるんじゃなかったのか。
ほんと、つまらないやつらだ。
あと15歩。そろそろ梨沙に睨まれるだろう。
10歩。まだ歩みはとまらない。大丈夫、毎回同じタイミングとは限らない。
5歩。おかしい。もしかして、梨沙は寝ているのかも。
真後ろは見ないようにしながら、横目で梨沙の席を見る。
いない。
カバンも何もない。
「え…………?」
帰った?
考えてみれば当然だ。四六時中守ってくれるはずもない。
どうしよう。
足音はとまらない。
叫ぶ? まだ近くにいるかもしれない。
喉はからからになって動かない。体が小刻みに震え、逃げることもできない。
連絡先、もちろん知らない。助けを呼べない。
あと3歩。
息が荒くなる。カバンを抱きしめる。
大丈夫、落ち着け、今すぐ走ればきっと追いつく。
一二の三で、逃げよう。
呼吸を落ち着かせる。一、
わずかに椅子を引き、つま先に体重を乗せる。二、
渾身の力を籠め、走り出そうとした。
心の中で『三』と叫ぶ!
頭の中では悠然と立ち上がり、脱兎のごとく逃げ出して、梨沙に追いつき、助けを求めた。
現実の体は立ち上がろうとした姿勢のまま固まり、一歩も動いてない。
肩を叩かれた。
「ご、ごめんなさい! 今お金ないんです! 明日必ず持ってくるので、きょ、きょきょ、今日は、ごめんなさい!」
「え? お金?」
「いつでもお小遣いもらえるわけじゃなくて、けど明日は絶対もらってくるので……」
「えーっと、じゃあお金かからないとこ遊び行く?」
違和感。
きつくつぶっていた瞼を開いた。
梨沙が、困惑顔で立っていた。
彩の情緒が決壊した。
感情のコントロールを失い、彩は次々と挙動不審ムーブをかます。
困惑した心情を吐露し、それをすぐさま弁解し、笑いでごまかそうとして失敗し、泣きそうになり、自分が何を言っているのかわからなくなる。
その間、梨沙は静かに相槌をうっていた。
それから二人で遊びに行ったのだが、よく覚えていない。
困惑と緊張で記憶は白飛びし、気づいた時には家のベッドで寝ころんでいた。
彩はひとり、羞恥に悶える。
一日でかました挙動不審の数々が、早くもトラウマアルバムに追加され、彩のメンタルを破壊してくる。
今日もまた、眠れぬ夜になりそうだ。




