見ていた世界
体育館の客席は満載だった。選手の親や友達が、階下で行われる試合を凝視している。
決勝戦である。広いマットの上では、二人の少女が拳を交わしていた。
背の高い少女の蹴りが相手の顔面に突き刺さる。くらった方はよろけながらも拳を下げようとしない。
タイマーが鳴ると、二人は距離をとった。白線の位置に戻る。
判定が下り、館内に放送が流れた。
「ただいまの試合の結果、優勝は東堂梨沙さんに決定しました」
紅白の少女は挨拶を終え、マットから降りる。
梨沙は面を脱ぎ、客席に向かって手を振った。
沙耶香もまた、梨沙に手を振る。
「お姉ちゃーん!! 優勝した!! 愛してるーー!!!」
呼びかけられると、沙耶香はわずかに頬を赤らめながら手を振って来た。視線を集めるのが恥ずかしいようだが、梨沙にとっては関係ない。
中学にあがっても、梨沙の世界は姉との二人だけだった。
会場を出ると、二人は手を繋いで帰路につく。
「ねえ、お姉ちゃん見てた!? あたし、強かったでしょ?」
「うん。かっこよかった」
「やったー!」
もろ手を挙げ、姉に抱き着く。
「あーもー、おうち帰ってからね」
「えー。いいじゃん別にー」
「歩きにくいでしょー」
梨沙は名残惜しそうに姉から離れる。
沙耶香がスマホを操作し、画面を見せてきた。
「ほら、さっきの試合。動画あがってたよ」
「えー。いいよ、そんなの。見て欲しいのお姉ちゃんだけだもん」
沙耶香は周囲の人間に梨沙を認めてもらいたいと思っている。親との仲も取り持とうとする。
けれど、梨沙にはそれがわからない。
他人なんてどうでもいい。練習して、勝って、姉に褒めてもらう。それで完結している。
梨沙は笑い、くるくると回りながら姉の前に出た。
「危ないよー」
「だいじょーぶー」
幸せだった。
親も教師も学校も、全部嫌いだ。
道場では仲のいい相手もできたが、しょせんは他人でしかない。
特別なのはひとりだけ。
建物も通行人も世界から締め出して、姉の顔だけを見つめる。
またくるりと回り、足を進めた。
「梨沙!!」
聞いたことのない、姉の怒声。
びくりと身を震わせる。
クラクションの音。
気づけば体は歩道から離れ、赤信号の交差点に出ていた。鋼鉄の怪物が少女の体を飲み込もうと大口を開けている。
遅い。トラックは遅々とした動き。それなのに体は動いてくれない。
「あ」
かろうじて口から吐息だけが出た。体を鍛えても、人に勝っても、意味はない。無力感が体を支配する。
腕を引っ張られた。
姉が目の前を通り過ぎていく。綺麗で儚い、昔はいつも見上げていて、いつのまにか自分より低くなってしまった人の顔。
梨沙と入れ違いに道路に出た沙耶香は、優しく微笑んでいた。
世界が速度を取り戻す。
梨沙は地面に尻餅をついていた。さっきまで隣にいた姉だけがいない。
視線を前に向けても、その姿は見当たらない。
地面にブレーキ痕を引いて、トラックがとまっている。
血が流れていた。
人が集まってくる。
サイレンの音が聞こえ、だんだん遠のき、視界は暗くなっていく。
何が起きたのかわからなかった。
わかりたくなかった。
「お姉ちゃん……?」
いつも手を握っていてくれた人が、守ってくれていた人が、大好きな人が、いなかった。
その日、梨沙の世界は崩れ去った。




