はじまり
放課後の教室。
頬を張る音が鳴り響く。
「早く謝りなさい! なんでそんな簡単なことができないの!?」
母に言われても、梨沙は答えない。もう一度平手打ちが飛ぶ。
机の向かいには男子生徒とその親、そして教師が並んでいた。
男子生徒は顔に傷を作り、涙の痕がある。
また手を振り上げる母親に、教師が割って入った。
「お母さん、そこまでしなくても」
「いいえ、この子はいつもこうなんです。ひとつも言うことを聞かない。生意気ばかりの乱暴者。人様に怪我をさせて反省の色もない。もうお母さんは限界。これ以上強情張るならあなたはうちの子じゃありませんからね!!」
「梨沙ちゃん。なんでケンカしたのか教えてくれる?」
問いかけると、梨沙はぷいとそっぽを向いた。
「梨沙!」
三度目の平手打ち。梨沙は頬を真っ赤にしながらも、まっすぐに母の目を見据える。
「生意気な!」
怒り心頭に発し、拳を握りしめた。
からりと扉の開く音。
「こんにちは。ごめんなさい、遅くなって」
「紗耶香。あなたを呼んだ覚えは」
「お母さん! ちょっといい? 石田さんから電話があって。私が仲介するより直接話したほうがいいかなって」
「あら、そう」
懇意にしている家の名前を出すと、表情に平静さが戻る。
梨沙を睨みつけてから教師を振り返った。
「用事ができましたので。あとは長女に任せます。紗耶香」
「うん。こっちはなんとかするから」
母親は一礼し、去っていった。
「すみません、こちらの都合でお待たせして。姉の紗耶香です。話は伺っています。このたびは妹が」
「だめ! 謝んないで!」
言い終わるより早く、梨沙が姉の袖を掴んだ。
だんまりを決め込んでいた梨沙が声をあげた。向かいの三人が目を見開く。
「こいつらがアヤちゃんいじめたの! 五人で! アヤちゃん泣いてた。だから殴った。こいつらが悪い!」
向かいに座っていた男子生徒を指さす。
被害者の側に立っていた彼は突然の糾弾に狼狽し、親の顔を見た。
大人たちもまた、男子生徒を見る目が変わる。
梨沙も怪我をしていることでは同じだ。顔と腕に擦り傷があり、痣もできている。
沙耶香は梨沙の頭をなでた。しゃがんで視線を合わせる。
「梨沙。外に車あるから、先に行ってて。お姉ちゃん、お話があるから」
「……謝らない?」
「私は梨沙を信じるよ」
「…………ん」
「いい子。お菓子置いてるからね」
梨沙は教室を出て車に向う。後部座席のシートに滑り込んだ。
座席に置かれていたビスケットに手を伸ばす。運転席に座っていたドライバーが飴玉を追加した。
「お話は終わりましたか?」
「んーん。お姉ちゃんが話してる」
「左様ですか。テレビでもご覧になりますか?」
「いらない」
梨沙は口に詰められるだけお菓子を詰め込むと、窓ガラスに張り付いた。
目を凝らすと教室が見えた。保護者は混乱を怒りに変え、教師は狼狽し、姉は繰り返し頭を下げている。
梨沙は窓から目をそらした。
30分ほどで紗耶香は戻ってくる。車は無言で発進した。
梨沙は姉の膝に倒れ込む。
「お姉ちゃん。あたし、お姉ちゃんのこと困らせた?」
「そんなわけないでしょ」
「あたし、やっぱりまちがってるのかなぁ」
沙耶香はそっと、妹の頭をなでる。
「まちがってないよ。梨沙は優しくて、正しくて、まっすぐな子。だけどこの世界は、正しくなくてねじ曲がってるから。自分を曲げて嘘をつく人間が評価されたりするんだよ。梨沙は、そのままでいいの」
梨沙は姉を一瞥し、お腹に顔をうずめた。
「あたし、やっぱりお姉ちゃんだけがいい。みんな嫌い。みんな……お姉ちゃん以外ぜんぶ嫌い!」
嗚咽まじりの声。
沙耶香は思う。この子は強くて優しい子。世界はさぞ生きづらいだろう。
だれかが言った。世界は変えられないけど、自分は変えられる。
その欺瞞を飲み下して器用に生きられれば、楽になるのだろうか。
それは救いになるのだろうか。
窓の外に目を向けると、一枚の貼り紙が目に入った。
生徒募集
「空手……。梨沙、格闘技やってみない?」
「なにそれ?」
「思いっきり殴れるよ。それで、もっともっと強くなれる」
「……強くなったら、お姉ちゃんうれしい?」
「もちろん」
「じゃあ、……やる」
梨沙が笑う。それだけで世界が明るくなった。




