リリアとアル
「起きてー。起きてください」
クレアの声。
リサはゆっくりと瞼を開く。しびれる肘、よだれの落ちたノート。前では教師が黒板を消している。
「あ、寝てた」
歓迎試合の翌日。
リサは初日から居眠りをかましていた。
一限目の魔力操作基礎はよかった。実習がメインだったからだ。しかし魔術言語学基礎はダメだった。黒板に謎の幾何学模様が並べられたところで意識は落ちた。
「もー、ぜんっぜんわかんないんだけど! あれ何語なの!? 数学より無理!」
「……リサって、もしかして勉強苦手?」
「そうだよ! 苦手だよ! 体育ないの? 眠いんだけど」
「体育はないけど。体動かしたいならトレーニングルームがあるよ」
「マジで!?」
「ええ。私は行ったことないけど」
「行こう! すぐ行こう、今から行こう!」
「ごめんなさい。私、これから術式アルゴリズムとってるので。午後からなら」
「わかった。それまで散歩してる」
「勉強してください…」
もちろんしなかった。
昼食後、トレーニングルームへ向かう。
トレーニングルームはグラウンドの隣にある。中にはベンチやダンベル、鉄棒など、リサも知っている器具が並んでいる。グラウンド側の壁はガラス張りで、スライドして開くようになっている。
さらにリサの視線を引きつけるものがあった。
入口から一番奥の場所に設けられた一角。ロープを張られた四角形の空間。ボクシングリングだ。
「あー、行ってみる?」
リサの視線に気づいたクレアが言う。リサはもちろんうなずいた。
クレアは部屋の隅っこを移動する。リングの周辺には半裸の男たち。クレアは「汗臭い」と顔をしかめた。
「おー、いいね」
「なにが?」
リサは嬉しそうだがクレアにはまったく理解できない。
「一応聞くけど、クレアって」
「無理無理無理無理、絶対ムリ!! 嫌です、ごめんなさい!」
「だよねー。いい相手いないかな」
周囲を見渡す。むくつけき筋肉たちは二人を気にも留めず、練習に励んでいる。
リサもあの体重90キロ以上はありそうな筋肉たちとはやりたくない。
トレーニングルーム内、さらにグラウンドへと視線を移す。
と、見知った顔を見つけた。
アルフレッドだ。黒いジャージのような服でグラウンドを走っている。すぐ後ろには長身の女性。165センチあるリサよりも大きい。冷たい美貌と相まってモデルのようだ。長い黒髪をポニーテールにまとめ、汗一つかかずに走っている。
「おーい!」
リサがガラスを開けて手を振った。アルフレッドは気づいて、無視した。
が、後ろの女性がアルフレッドの首元をつかんだ。「うげっ」と悲鳴があがる。
女性はずるずるとアルフレッドを引きずって来た。
「主人が失礼しました。何か御用でしょうか?」
「おい、いつも途中で休むなって言うくせに」
「人間関係が絡めば別です。ご学友は作るべきです。そろそろぼっちは卒業してください」
「だれがぼっちか!」
「お静かに」
女性が手に力を籠めると、首を絞められたアルフレッドは動きをとめた。
「従者のリリアです。主人に何か御用ですか?」
先ほどと同じセリフを繰り返した。リサは若干引きながらも答える。
「用ってほどじゃないけど、見かけたから。あ、私はリサね。こっちはクレア」
リリアは二人に一礼する。
「そうでしたか。ひょっとして、練習相手をお探しでしたか?」
リングを見てから尋ねる。
「うん。そうだけど」
アルフレッドの顔を見る。とても嫌そうだ。
「本人嫌がってるし、他あたるよ」
「かまいません。走ったあとは格闘の予定でしたから。ご迷惑でなければこちらからお願いしたいくらいです」
「そ、そうなの? 本人すごい顔してるけど」
「これはあとでしつけておくので、お気になさらず」
アルフレッドはリリアには逆らえないようで、憮然としながらも承諾した。
二人は着替え、準備する。グローブは棚に置いてあった。ボクシンググローブではなく、総合で使う五本指のグローブだ。
「ルールは?」
「魔術を使うな、武器を使うな、急所を狙うな、殺すな」
「天下一武道会じゃん」
リングが空いた。脇にはタブレッドサイズのガラスパネルがあり、アルフレッドはそれに手を置いた。
「なにそれ?」
「調整器だ。体重や筋力を測って、それらのハンデがなくなるように身体強化がかかる」
「なにそれ超すげえ。でも魔術禁止じゃないの?」
「調整器は別だ」
「なるほど」
リサも調整器に手をあてる。自分で操作する必要はなく、すぐに強化は終わる。アルフレッドは素の状態のままだ。身長は小さいが体重はリサよりあるので当然だろう。
これで純粋に技術のみの勝負となる。もちろんリーチ差は残るが、そこまで言い出すとキリがない。
リングに立つと、アルフレッドは構えた。足幅は狭く、重心は高い。
対するリサは足を開き、体重をぐっと落とす。左手も中段の位置。
アルフレッドは軽くジャブ。リサは上半身をかがめてかわし、カウンターで顔面を狙った。アルフレッドはスウェーでかわし、一度距離を取る。
一度の交錯で、アルフレッドから気だるそうな表情が抜けた。目に鋭さが増す。
アルフレッドのローキック。リサは足をあげてかわすと、その足を下ろしながら一歩踏み込んだ。ガードの間を抜いてアッパーをうつ。アルフレッドは最低限だけ身をひいてよけ、パンチをうったあとのリサの脇腹にボディフックを入れた。
「っ!」
息が詰まる。
次の瞬間、左のフックがリサの顎にヒットした。
ぐらりと視界が揺れ、倒れる。
高校で柔道に転向して以来、三年ぶりのダウンだった。
アルフレッドがリサをかついでリングを降りる。クレアの前に置き、リリアのもとへ戻った。
「お疲れさまでした」
「うむ」
アルフレッドは上機嫌だった。試合での借りを返せてうれしいのだろう。
リサはクレアに支えながら起き上がる。
「いっててて。アルってこんな強かったの?」
「人の名前を略すな。あと、そこの出口を出て左に医務室がある」
アルフレッドはグローブを拭いて棚に戻すと、グラウンドに出てリリアを待つ。
「手合わせありがとうございました。無愛想なのはあとで叱っておくので、お許しください」
「別にいいよ。あれはあれでかわいげあるじゃん」
「そう思っていただけるのなら助かります。私はアルフレッド様の部屋にいますので、学園生活でお困りのことがございましたら、いつでも頼ってください」
リリアは一礼して踵を返す。
リサは咄嗟に呼び止めた。
「あ、じゃあさ、頼みっていうか、聞きたいことあるんだけど」
「どうされました?」
リリアは立ち止まって振り返る。
「資料室にある練習用の仮想空間あるじゃん? あれ、混んでてぜんぜん使えなくて。なんかこう、空いてるとことかないかなーって」
「ありますよ」
「あるの!?」
ダメ元で聞いていたので驚いた。が、クレアは得心いった様子。
「あー、そっか。アルフレッド君って上位生か」
リリアがうなずく。
「え、なに? どういこと?」
「上位生、学園で成績が十位以上の人間にはいろいろと特典がつくの。寮が個室だったり、禁書庫に入れたり。仮想空間への優先アクセス権もあるの」
「アルフレッド君は一位だっけ?」
「学年では一位だけど、学園内の序列はたしか七位だったはず」
「あれより上に六人いるのか……」
「一年で七位になれるのが異常なんだけどね」
「ちなみに一位はどんな人なの?」
「ニーナ・エザルカ。国防大臣バーバラ・エザルカの娘で、ただひとり液体のゴーレムを操れる魔術師」
「液体のゴーレム、って強いの?」
「去年、中等部も参加できる大会があったんだけど、アルフレッド君は15秒で負けたよ」
「人の黒星を語るのがそんなに楽しいか」
「どわっ、びっくりした!?」
振り向けば不機嫌そうな顔のアルフレッドが立っていた。
「アルフレッド様。仮想空間へ行くときにこのお二人も同伴します」
「なぜお前が決めてるんだ……」
「アルフレッド様ほどの器の大きな方が拒むとも思えませんでしたので」
すまし顔で言うと、アルフレッドは「ふん」と鼻を鳴らす。
「夕食後、部屋に来い」
それだけ言って、今度こそランニングに戻った。